ポルトガルの窓から日本が見える No.21

2016.12.15 Thursday

0

    ポルトガルの窓から日本が見える

     

    文:吉田千津子 写真:奥村森

     

     

     

    Picture of Pacheco パシェッコ遺影

     

     

    ヴィラポウカ伯爵

     

    大好きなポンテ・デ・リマを離れ、ギマランイスへ向かう。私たちは途中の町、ブラガに立ち寄ることにした。ポンテ・デ・リマで会ったフランシスコ・パシェッコの子孫だというアブレウ・デ・リマ伯爵から「最近、ブラガの親戚のヴィラポウカ伯爵宅で日本で殉死したフランシスコ・パシェッコのデスマスクから写した絵が発見された」との情報を得たからだ。

     

    城のように大きな邸宅に着いたが、何処が入り口なのだかわからない。大声で叫んでみるが、余りの大きさに声も届かない。仕方なしに階段のある2階の扉まで上って声をかけると、やっとヴィラポウカ伯爵の母親が現れた。今、伯爵は仕事で他国に駐在しているとのことで不在ではあったが、彼女が親切に案内してくれた。

     

    屋敷のなかは少々カビ臭かったが、ここも博物館のようで面白い。木造りの30センチほどの十字架が書棚の中央に見える。彼女は「これがフランシスコ・パシェッコの遺骨です」と言いながら十字架に仕組まれた小さな4つの窓を指さした。そこにはパシェッコの小さな骨の一部、薬草と木のかけらなどが窓から見えた。彼女は「何でも撮って下さい」と大変協力的で有難いのだが、話し出すと止まらなくなるのにはまいる。

     

    この屋敷がある敷地には、17世紀に建てられたプライベイト・チャペルがあり、今でも神父さんが毎日曜日に来て礼拝をしているそうだ。時が流れても変わらぬ宗教心には驚かされる。教会内の装飾はターリャ・ドラードと呼ばれる金泥細工が主体で、壁には3人の天使が空中を舞っている絵が描かれている。金箔が少々剥げ落ちてはいるが、なかなかなものである。

     

    お目当てのデスマスクから写したパシェッコの絵を見せてもらった。西坂の事件を思い出すと、日本人として申し訳ない気もちでいっぱいだった。私たちは、心ゆくまで取材をして、満足感に浸りながらギマライスへと向かう。

    ポルトガルの窓から日本が見える No.22

    2016.12.16 Friday

    0

      ポルトガルの窓から日本が見える

       

      文:吉田千津子 写真:奥村森

       

       

       

      Inside of Pousada ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタ館内

       

       

      ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタ

       

      今日の宿泊は、ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタだ。判りにくい、くにゃくにゃ道を山のほうへと登る。方向オンチの私がナビゲーターを務めたので道を間違い、またもや奥村さんと私は険悪なムードとなる。それでも、やっとのことでポウザーダに着きホッとする。

       

      このポウザーダの外観は、これといった特徴はないが室内はとてつもなく広い。天井も高くすべて石造り。長い回廊の左右には、いかにもかつて修道院であったことを偲ばせる木製の重厚な扉が延々と並び、私たちの足音が「コッ、コッ」と回廊に反響して、厳粛にして壮観な気もちにさせてくれる。客室とロビーには16〜17世紀頃の家具が備え付けられ、これもまた優美そのもの。

       

      ギマランイスは「ジャポネイラ」と呼ばれる日本伝来の椿の花が沢山あることで知られる。某雑誌社から「ジャポネイラ」の取材を依頼されていたので期待して訪れたのだが、時期が早すぎ蕾がやっと付いたところで花を見ることは出来なかった。

       

      喉が渇いたのでカフェに行ってみると、そこに客の姿はなく、ウェイターが手もち無沙汰でボーッと立っている。頼んだレモンティーを運んできた彫の深い顔立ちでハンサムなウェイターは、ポルトガル語を話す東洋人が珍しいとみえ、暇にまかせて私たちの所から離れようとしない。

       

      「このポウザーダの宿泊客は、オランダ、イギリス、フランスからの顧客が主体だが、10月、11月になると70パーセントがアメリカ人でポルトガル人はほとんど来ない」と私たちに説明してくれた。 なるほど、ウェイターが懐かしそうにポルトガル語を話す理由がわかった。彼にとって職場では毎日のように外国語を使わねばならず、母国語ポルトガル語に飢えているのだ。

       

      春子は、私の側でコニャックをすすっている。私が「そのブランディーおいしい」と尋ねると、「ブランディーじゃないです、コニャックです」と真面目な顔で応える。私は「コニャックとブランディーは同じものじゃないの、コニャックはフランス語でブランディーは英語だと思うけど」と言い返すと、春子は驚いた顔で「エッ、本当ですか」と叫ぶ。飲みっぷりは一人前だが、彼女の無知さかかげんには呆れ果てる。しかし、これが当世日本の若いお嬢さんの現実なのかも知れない、我慢、我慢。

       

      夜はポウザーダのレストランで、ジーンズ姿の普段着でお食事。レストランでは一組のアメリカ人夫婦をのぞき、他の人たちは盛装している。典型的な日本人奥村さんは、しきりに周りを気にしながら「部屋に戻って背広を着てこようかな」ときまり悪そうだ。私もジーンズをはいていたが、他人がどう思おうが別に悪いことをしているわけでもなし、ぜんぜん気にもならない。3人の中では、春子が一番ましな格好をしている。皮肉なことに、外見と中身のマナーがここでは逆転してしまった。

       

      テーブルについてオーダーした料理を待つ。テーブルには、40センチ程のピカピカに磨かれた鏡のような顔まではっきりと写る銅皿がすでに置かれている。ウェイターがハム、チーズ、オリーブなどの前菜をサービスし始める。さて、この銅皿の上で前菜を食べるか否かで3人ケンケンガクガクの討論が始まった。結局、他の金持ちそうな夫婦の真似をすることになった。ハムは直接盛り皿から取っているのを見て、やっと安心して食べ始める。

       

      もしも、このピカピカの銅皿にベッタリとハムの形がつきでもしたら教養のない東洋人ナンバーワンとして、ずっと語り継がれることになってはと、なかなかリラックスして食事も出来ない始末。やはり私たちは田舎者なのかも知れない。

       

      このポウザーダの料理はこれまで食べたポルトガル料理のなかでは一番私たちの口にあった。バカリャウ(たら)も一度揚げてあるので、皮がカリカリとして香ばしく肉厚で塩加減は最高のあんばい。「本物のポルトガル料理を食べるならここだ」と私は確信した。

       

      奥村さんは、相変わらず食欲が無くスープだけをすする。春子は何故かフォークとナイフを持つとエビや肉を皿から飛ばすクセがある。勿論、この日に食べた鱒も飛ばしたのは言うまでもない。

      ポルトガルの窓から日本が見える No.23

      2016.12.16 Friday

      0

        ポルトガルの窓から日本が見える

         

        文:吉田千津子 写真:奥村森

         

         

         

        Vineyard & Oive tree Pinhao ブドウ畑&オリーブの木 ピニョン

         

         

        フォアグラになった日本人のお話

         

        ギマランイスからポルトワインの郷、ピニョンを経てカザル・ロイボの「ツリズモ・デ・アビタソン」に着く。ピニョンから6キロ、その家は山のてっぺんにあった。オーナーは、マヌエル・サンパイオ・ピメンテル。彼は、ポルトで車販売会社の役員をしていたが2年前に大事故にあい、その後は仕事をやめて、ここに移り住んだのだという。

         

        「ツリズモ・デ・アビタソン」は2階建、上階はプライベイト住居、1階が共同使用住宅、地下には6室の客室がある。貴族のなれの果てとみえ、1910年にポルトガル王制が廃止された時に広大な土地は全て没収され、残ったのがこの家と少々のブドウ畑だったと言う。

         

        1733年にマヌエルの先祖が住み始めてから、彼で5代目だ。家具は18世紀のもの、ポルトガル軍とイギリス軍が協力してナポレオンを撃退した時に兵士が使ったという分厚い皮製のキャンピング・ベンチ、テーブルの上にはピストル2〜3丁が何気なく置いてある。いずれも歴史物で、そこらの博物館より見応えがある。

         

        この地方はドウロ地方と呼ばれ、代表的産業はブドウ栽培。畑で働く人たちのための高カロリー「ぶっ込みシチユー・ランショ」が名物だ。マヌエルの使用人のおばちゃんが私たちのために、わざわざ手料理を作ってくれた。

         

        材料は牛肉、とり肉、豚の耳と足、チョリソ(ソーセージ)、たまねぎ、人参、じゃがいも、スパゲッティー・パスタ、グラン・デ・ビッコ(ひよこ豆)、オリーブ油、塩、コショー、それにピリピリと呼ばれる唐辛子、にんにく。これらの材料を1時間グツグツと煮込んだら出来上がり。労働者の食事なので、ちょっと塩からかったがとても美味しい。

         

        マヌエルは英語が堪能で、英国風辛口ジョークを話すソフィスティケイトなポルトガル貴族といったところだ。博学でおもしろい男だった。彼は、この宿を3人の使用人と一緒にきりもりしている。奥村さんは、ポルトガルにやって来てから言葉が通じず不自由な思いをしていたので、ここぞとばかりに英語で水を得た魚のごとく話しまくる。

         

        10月に入ってからは、毎日雨が降ったり止んだりの天候、今日もまたまた同じ。だが、雲に見え隠れする景色も趣があって悪くない。この「ツリズモ・デ・アビタソン」からは、黄色や赤に染まったブドウ畑が眼下に広がり、白い雲とのコントラストが何とも素晴らしい。

         

        午前中は雨だったが午後になって陽もさし始めた。ラメゴに午後6時30分に到着、ギマランイスから250キロも運転してきた奥村さんはヘトヘトになっている。今日の宿は「アルベガリア・ド・セラード」。午後7時に観光局の人との約束があるので3人とも慌てて身支度をしてロビーに下りたが、一向に現れる気配がない。

         

        40分ほど経過して、私たちが諦めて夕食を食べに行こうとした時、色白の紳士が息を切らせて跳びこんで来た。40分の遅刻だ、ポルトガル人だから仕方ないか「郷に入れば郷に従え」である。彼は、ラメゴ観光局のジョルジ・オゾリオ氏。彼は遅れて来たことを詫び、ロビーにあるバーでジョルジお薦めの1927年物のポルトワインを食前酒としてご馳走してくれた。ほどよい甘さでマイルドな香りが口の中に広がった。

         

        ジョルジは35歳、背が高く、ちょっと気弱そうに見えるが誠実な人だった。夕食は、彼のお気に入りのレストランですることになった。レストランに入るとウェイターたちは常連の彼に愛想よく挨拶をする。ジョルジは大きなえび、イカ、いろいろな魚の入ったおじや風ともパエーリャ風とも言える料理、バカリャウ(たら)、ステーキなどをドンドンと注文する。テーブルに運ばれた料理は、日本だったらゆうに10人前以上の量である。彼は、日本の宴会の席のようにワインを、ちょっと飲むとすぐに「どうぞ、どうぞ」と注ぐ。

         

        アルコールに弱い奥村さんと春子の顔は、みるみるうちにゆでダコのように真っ赤になってゆく。今日でポルトガル生活3週間目。あっさり派の奥村さんは過労とオリーブ油で体調を崩しているが、せっかくのご好意だからと無理やり料理を口に詰め込む。

         

        ジョルジに気づかれないようにと、笑顔を見せながら私に「もう限界、食べ物が口の所まで一杯で気もち悪い」と言いながらも、彼にすまないと必死に食べ続ける。フォアグラの飼育を思い出させる。何処に行ってもポルトガル北部料理の量は半端ではない。

         

        翌日10時の約束をして彼と別れる。その後、奥村さんは這いつくばりながら自分の部屋に戻った。言うまでもなく、その夜、彼は食べ過ぎで七転八倒の苦しみを味わったようである。私はといえば、部屋にカメ虫が現れたのでマクラで追い払ったり、部屋には日本製の暖房器具が備え付けられていたので、洗濯びよりとばかり、夜にもかかわらず洗濯をする元気が残っていた。

        ポルトガルの窓から日本が見える No.24

        2016.12.16 Friday

        0

          ポルトガルの窓から日本が見える

           

          文:吉田千津子 写真:奥村森

           

           

           

          Inside of monastery Saojoaodetarouca サン・ジョン・デ・タロウカ修道院内部

           

           

          ラメゴ名物は発泡ワインと人情

           

          昨日、ジョルジ・オゾリオと10時に約束したが、気がついたら今日は日曜日。ポルトガル人は休日には働かないので、ちょっと心配になる。そんな心配をよそにジョルジは約束どおりやって来た。彼の案内でムゼウ・デ・ラメゴ(ラメゴ美術館)を訪れる。美術館の一室には2メートルもの高さのある一対の薩摩焼きの花瓶があった。

           

          ひとつは15世紀から16世紀の日本の戦場画で、家紋の入った戦闘旗を揚げた武士が入り乱れて戦っている様子を描いたものであった。もうひとつは「キオト」と書かれているが、絵柄や色が中国風に見える。日本を題材にはしているが、私たちからは奇妙に見える逸品だ。その部屋には、椿のアズレージョもあった。余りにも私たちが椿のアズレージョに興奮するのを見たジョルジは、もっと沢山ある場所へ案内すると言い出した。

           

          ジョルジの運転で、ラメゴから車で30分ほどのサン・ジョアン・デ・タロウカに行く。この町は、キリスト教シトー派によってポルトガルで最初に建造された修道院がある。日曜日だというのに雨が降っていることもあってか、人っ子ひとりいない。修道院の中に入ると、美術館で見たのと同じようなアズレージョが4千7百余枚も壁いっぱいに貼りめぐらされているのには驚く。花と動物をデザインしたものが多い。

           

          隣室には、高さ2メートル、重さ1トン、花崗岩を素材にしたイエスを抱くマリア像が飾られている。他のマリア像と違い、いかにもポルトガル風でふくよかだ。チャペルの家具は、その昔ブラジルから運ばれたパオ・ブラジル(ブラジルの木)を材料にして作られている。ポルトガルでは、かつての栄光の産物という意味なのだろうか、パオ・ブラジルをマデイラ・ノブレ(高貴な木)と呼んでいる。

           

          その家具の中には珍品もある。何に使うのか、ついたての形をした10メートルもあるマデイラ・ノブレが一列に立てられている。「これは立って座れる椅子ですよ、ちょうど腰の高さにある半月形のベロをパタンと倒すと補助椅子になるんです。長いミサで僧侶が疲れないための知恵、ミサは厳粛な雰囲気を保ちながらも椅子に座ることも出来るんです」とジョルジは柄になく悪戯っぽく話す。

           

          長いローブを着ると、それこそカモフラージュされて立っているとしか見えないであろう。いかにも、ラテン人らしい発想、名づけて「横着椅子」。ベロをパタンとたたむとエンゼルの顔が見える、ユーモアたっぷり、皆で大笑いする。

           

          もう一つの傑作は、2階に取り付けてあるパイプオルガンだ。オルガンを弾くと、すぐ側にある木製のキリスト像が音楽に合わせて手を広げ、口を動かすカラクリの仕掛けになっている。シトー派はお堅い人達ばかりだと思っていたがユーモアに富み、なかなかのアイディア集団であったとみえる。

           

          修道院案内人の男は、足が不自由で両杖をついている。彼は信じられない早さでまくしたて、いつまでたっても話が止まらない。閉口。帰途、ワイン工場に立ち寄る。日曜日で休みなのではないかと思ったが、あにはからんや工場は開いていた。当然である、今日がブドウ収穫最後の日、ワイン工場の仕事で一番大切な日だったのだ。

           

          工場の側には広大なブドウ畑が拡がり、地下には花崗岩を利用したワイン蔵が造られている。気温は常に12度、湿度は100ペーセント以上に保たれている。ワイン蔵はヒンヤリとして、時おり天井から水滴がポトポトと落ちてくる。赤・白・ロゼのワイン、シャンペンあり。

           

          「各ワインは樫か栗の木の樽で寝かせ、1年の生産高は35万本、常時300万本は有りますよ」と工場長は自慢気に語る。モンターニャ地方のラメゴは小さな町だが、発泡性ワインでは全国的に有名、そして何よりジョルジに象徴される誠実で真面目な気質はこの町の宝である。観光局のジョルジは休日にもかかわらず、私たちのために一生懸命に案内してくれた。「ジョルジありがとう」

           

          だが、2晩連続の彼の接待で、ついに奥村さんはダウン、丈夫なはずの私までワインと食べすぎで体調を崩してしまった。明日は100キロ先のスペイン国境に近い町、シャーベスに撮影のために向かわなければならない。どうしよう。 

          ポルトガルの窓から日本が見える No.25

          2016.12.16 Friday

          0

            ポルトガルの窓から日本が見える

             

            文:吉田千津子 写真:奥村森

             

             

             

            Wagon & boy 荷馬車と少年

             

             

            山の中のブレーメン音楽隊

             

            午前8時、シャーベスに向けて出発。ヴィラ・レアルまで23キロのクネクネ道を走る。乗っている私たち、運転している奥村さんも気もちが悪くなるほどの急カーブだ。やっとヴィラ・レアルとホットしたのもつかの間、またまた曲がりくねった道が続く。一体どこまでクネクネ道が続くのだろう。

             

            シャーベスまでの道程は100キロに及んだが、結局まっすぐな道はほとんどなかった。すでに体調を崩している3人は、シャーベスに到着した頃には頭がボーッとしてヨレヨレになっていた。早速、観光局に行ってみると、リクエストしてあった取材の話など聞いていないというのだ。

             

            「100キロもの距離を車に酔いながら駆けつけたのに」私たちの連絡不足もあっただろうが、腹立たしくドッと疲れが出てきた。怒りが収まらない私たちはシャーベスにいるだけでも気分が悪くなり、すぐにラメゴに引き返すことにした。

             

            私たちの心は晴れなかったが悪いことばかりではなかった。ラメゴに帰る山道で「ブレーメンの音楽隊」そのままの父子に出くわすことが出来た。彼らはロバに荷車を引かせて、荷台のうえには家財道具一式に加えて一羽の茶色い鶏までも乗せている。

             

            荷車に細い紐でつながれた黒い子犬が雨でびしょ濡れになり、寒さのためブルブルと身体を震わせている。ロバも急な坂道を登るたびに垂れ下がっているたづなが擦れるらしく、わき腹が赤剥けて血がにじみ出ている。茶色の穴だらけのセーターを着た8歳ぐらいの男の子は、傘もささず雨の中をゆっくりゆっくりと3頭の馬を引いて歩く。

             

            後方には父親がもう1頭の馬を引いている。その馬は大切な商品なのだろうか、透明ナイロンシートが背中にかけられている。ビュンビュンと通り抜ける車を避けるように、彼らはモクモクと急な山道を目標の村へ向けて歩き続ける。

             

            写真を撮らせてもらったお礼に、私が持っていた日本製のワッペンを男の子にあげると、恥ずかしそうな笑みを浮かべ父親に嬉しそうに見せる。その様子は貧しいながらも素朴で信頼の糸で結ばれた父と子の姿に見え、日本の消え去った懐かしい風景として深く心に残った。

             

            今日でラメゴともお別れ。お世話になったジョルジ家族を夕食に招待することにした。だが不覚にもジョルジに先手をうたれ、逆に招待されることになってしまった。車に乗せられて着いた先は、なんとジョルジの家だった。彼の家は中古で買ったマンション、3寝室、2バス、台所、居間で構成され、こぎれいで住み易そうな住まいである。

             

            数年前に400万円ぐらいで買ったそうだが、いまでは1千万円以上出さないと買えないだろうと彼は言う。日本なら、この値段でこのサイズの物件はとうてい買えないだろう。子供2人の4人家族で、夫人のマリア・ジョアンは教育熱心なお母さんだ。思いもよらぬポルトガル家庭訪問、マリアの美味しいホームメイドの夕食とワイン、BGMはポルトガル音楽、今日起こった嫌なことも、みんなふっ飛ばしてくれる。「ジョルジいろいろお世話になりました、ありがとう」 

            ポルトガルの窓から日本が見える No.26

            2016.12.16 Friday

            0

              ポルトガルの窓から日本が見える

               

              文:吉田千津子 写真:奥村森

               

               

               

              Sheep farming 牧羊

               

               

              ポルトガルの東洋人

               

              ラメゴからヴィゼウに向かう。出発前、わざわざジョルジがお別れに来てくれた。本当に人の好い、人情深い人だ。昨夜は3人とも、ジョルジの家からホテルに戻ると気分が悪くなり吐いてしまう。昼に食べたサンドイッチがあたったものと思われる。奥村さんはとりわけ酷く、一睡も出来なかったようだ。

               

              だが気分が悪くてもプロ意識旺盛な奥村さんは、途中、羊の大群を連れて山中を歩くおじさんと山上で出会うと撮影を始める。1時間半ほどでヴィゼウに到着。体調が悪いためか、馬鹿に長く感じる。観光局の紹介で4つ星ホテル「グラン・ヴァスコ」にチェック・イン。ホテルは夏のシーズンも終わり閑散としている。オフシーズンのためか暖房もカットされ、各部屋にポータブル・ヒーターを備えて暖を確保している。

               

              フロントには、東洋人の顔付きをした50歳代の男とでっぷりとした恰幅の良い男がいる。東洋人風の男が私たちの重いスーツケースを3つ、ハーハー言いながら運んでくれた。荷物1個につき200エスクードのチップを差し出す。その男は「あなたは、中国人か」と私に尋ねる。

               

              その質問は、逆に彼にしようと思っていたところだ。その男は「自分はポルトガル人で中国へは行ったこともない」と言う。何代か前の祖先がマカオからポルトガルに移住した中国人の子孫なのだろう。ポルトガル北部、内陸部まで来ると東洋人はおろか、世界中どこに行っても出会う中国人にすら会うことは無かった。

               

              彼は私が中国人だったら、中国事情でも聞こうとでも思ったのだろうか。言うなれば、私は彼にとってパンダ的存在なのである。体調が相変わらず良くならない3人は、今日は休日にすることにした。一番体調の悪い奥村さんは、昼も夜も日本から持ってきた日本茶とミソ汁だけをすすっている。その夜、私たちは、これまでの疲れと緊張から一日中眠りこけた。

              ポルトガルの窓から日本が見える No.27

              2016.12.17 Saturday

              0

                ポルトガルの窓から日本が見える

                 

                文:吉田千津子 写真:奥村森

                 

                 

                 

                Nuns 修道女

                 

                 

                修道院の生活

                 

                一日休息を取ったので大分体調が回復してきた。今日はサンタ・ベアトリス・ダ・シルバ修道院を訪れることになっている。普段、修道尼以外は入館禁止とされているが、はるばる日本から訪ねて来たのだからと、観光局と修道院の特別な計らいで実現したのだった。

                 

                ヴィゼウのホテルから車で20分ほどの所に修道院はあった。ここでは12人の修道尼が共同生活をしている。扉を開けると正面に30センチほどの格子のついた小さな窓がある。年輩の修道尼が窓越しに「私は外へは出られないので済みませんが、この鍵でドアを開けて自分で入って来て下さい」と言う。

                 

                鍵を開けると、そこは接客室、訪問者が修道尼と対話できる唯一の場所だ。ここから先は、何人も入室が禁じられているのだ。だが、私たちは特別扱い、オフホワイトの床までの長いローブを身に着けた修道尼がチャペルに私たちを招きいれ、歓迎の讃美歌を歌ってくれた。

                 

                彼女たちの一日は、5時50分の起床から始まる。朝食後、ミサと仕事、昼食休みが1時間40分、再び仕事、夕食は午後8時半、そして就寝。これが日課だ。仕事は司祭のローブや祭壇のカバーを飾る刺繍作業、その間、手の空いた修道尼が聖書や宗教関係の本を読み、作業中の修道尼に話して聞かせる。

                 

                生活は自給自足、広い敷地内の菜園にはキャベツ、かぶ、イチゴ、トマト、豆、人参、たまねぎ、ブドウ、りんご、梨となんでも植えられている。その他、鶏、兎、アヒルなども飼っている。なかでも食用うさぎの小屋には、絞め殺すロープや鋭い包丁などが置かれている。

                 

                この優しそうな修道尼たちが食料のためとはいえ、殺生をするのかと思うとイメージが湧かない。むしろ想像できないギャップから、おどろおどろしい感じさえする。牛肉は、週に一度、業者に頼んで持って来てもらうそうだ。飼育している量では賄いきれないのか、殺生を出来る限り避けたいと思ってのことかはわからないが。

                 

                この修道院の最長老はイルマ(シスター)・デオリンダ。もうここに入って31年になるそうだ。修道院で修行を望む者は、まず手紙を書いて入院の許可をとる。それが受諾されると修道院に簡単に誰でも入ることが出来る。入院して6年目までは何時でも止めることが出来るが、その期間を過ぎると修道院で務めを続けるか否かの最終決断をしなければならない。一度、継続決断すると一生を修道院で過ごし、病気で病院に通う以外は外出禁止と言う厳しい戒律のもとに暮らすことになる。修道院の片隅には墓地もあった。ここで生涯を終えた修道尼たちが眠っているのだ。

                 

                修道尼の日々は神に祈りを捧げること、生活は極めて質素で彼女達の部屋には小さな洗面所とタンス、それに粗末なパイプ製のベッドだけ。洗面所にはコップと使い古した歯ブラシと歯みがき粉。物が溢れる飽食の時代に暮らす私たちにとっては考えられない生活だ。

                 

                しかし、彼女たちの表情は生き生きとして輝いている。きっと精神的に充実した暮らしをしているからに違いない。今日の日本は、物質的には豊になったが精神的なものが失われつつある。ここにいると何故かホッとして穏やかな気持ちになれるのだ。経済競争に明け暮れ、自失状態の日本人が裸の王様に見えて来る。

                 

                こんなことを考えながら、ヴィゼウから22キロの郊外にある温泉、サン・ペドロ・ド・スルに向かう。ここは、カルダス・ダ・ライーニャの温泉病院に比べるとリゾード化しているように思われる。4時からオープンするこの温泉、まだ30分前だとういのに長蛇の列が出来ている。この地の人々にとって日常不可欠な施設になっているようだ。

                 

                この施設には、温泉プールもあるので子供達もいっぱい、レジャー機能も備わっている。その昔ローマ人が使用していた風呂もここには残っていて、周辺の公園にはあちらこちらから鉱泉のイオウの臭いがする。「時間があったら入ってみたいな」と温泉好きの奥村さんは、詰まったスケジュールを恨み残念がる。

                ポルトガルの窓から日本が見える No.28

                2016.12.17 Saturday

                0

                  ポルトガルの窓から日本が見える

                   

                  文:吉田千津子 写真:奥村森

                   

                   

                   

                  Serra cheese セラ・チーズ作り

                   

                   

                  ダウン地方の田園生活

                   

                  念願のチーズ作りを見学しようと、カナス・デ・セニョリンにあるツリズモ・デ・アビタソン「カーザ・アブレウ・マデイラ」に行く。ここはセラ地方と呼ばれ、チーズはセラ・チーズとして有名だ。

                   

                  まず、羊の乳を35度に温める。それにコアーリョ(自然の凝固剤)と塩を入れる。固まるのを待って穴のあいたメタル容器に移し、水分を1時間かけて取る。漉し取った水分は、もう一度煮詰めてレケイジョン(クリーム・チーズ)にする。チーズは1ヶ月間、蔵で毎日裏返しながら熟成させると出来上がり。「カーザ・アブレウ・マデイラ」では、10月から5月までホームメイド・チーズを作るそうだ。羊特有のきつい臭いもなく、とても美味しかった。

                   

                  チーズといえばワイン。この地方のワイン「ダウン」も有名である。郷土菓子は「カスターニャ・デ・ヴィゼウ」といって日本のケイランソーメンに似ている。その帰途、ブラガンサ家の末裔の住んでいる邸宅の前を通った。42歳で独身、まだ王制が続いていれば、世が世なら彼はポルトガル王になっていた人である。こんなひなびた小さな町に王様の末裔が住んでいるなんて、ちょっと以外だった。

                   

                  畑の中に真っ直ぐに延びた一本道を進むと、突然、道路を横切る羊の大群。奥村さんは、早速車を止めて羊のほうへ走って行く。だが、すぐに息をゼイゼイさせながら真っ赤な顔をして慌てて帰ってくる。「牧羊犬に阻まれて撮影できなかった」とのこと。これまでの旅で奥村さんは「番犬は必死に羊を守る、それを脅かすものには容赦なく跳びかかる」という気質を学んでいたからだ。

                  ポルトガルの窓から日本が見える No.29

                  2016.12.17 Saturday

                  0

                    ポルトガルの窓から日本が見える

                     

                    文:吉田千津子 写真:奥村森

                     

                     

                     

                    Shepherds 羊飼い

                     

                     

                    セラ地方の井戸端会議と羊飼い
                     

                    この2日ほど体調を整えるために粗食で過ごしたので、私たちは再び元気を取り戻した。今日は、これからヴィゼウを出発してグァルダ、コヴィリャンを経由、カステロ・ブランコへと向かう。またしても道に迷ってしまったようだ。こうなると小さな町や村は地図にも載っていないので役に立たない。四苦八苦しながらも、人に道を何度も尋ねながら行くことにする。

                     

                    セイアと言う分岐点の町で道を聞いた時には、野次馬が沢山集まって「ああでもないこうでもない」とケンケンガクガクの討論になってしまった。井戸端会議のおじさん達は勿論のこと、兵隊さんまでやって来る始末。車を動かすこともできない。何と言うことはない、どちらの方向に行ってもコヴィリヤンに行けることが判った。

                     

                    私たちは気の向くままに方向を決め進むことにした。セイアからコヴィリャンに向かう山道は穏やかで、自動車もほとんど通らず快適。撮影も快調だ。山のテッペンでは、ドイツ人らしいバックパック姿の2人づれが雨に濡れながら歩いている。バスも通りそうにない道を、これから延々と次の村まで歩くのだろうか。さすがはヨーロッパ人、そのたくましさに私は驚愕した。

                     

                    山の中腹では、羊の首に付けられた鈴の音が「カランコロン」とノンビリと響き渡る。コヴィリャンは、ポルトガルで一番高い所にある町だ。岩山にビッシリとへばり付くように家が建ち並ぶ。その家と家を無数の坂道が糸のように結んでいる。この町にも特産の美味しいチーズがあると聞いていたので取材をしようと試みたが、あいにくチーズ作りのシーズンはすでに終わってしまったとのこと。諦めてカステロ・ブランコへと車を走らせる。

                     

                    途中、70歳と45歳の羊飼いに出会う。70歳のおじいちゃん羊飼いは「この仕事を50年やっているよ」と話す。パトロンに雇われて230頭の羊を一日中追って野山を歩き回っているのだそうだ。おじいちゃんに寄り添うように大きな犬と、これから牧羊犬としてデビューするという顔の毛がポアポアした青い目の子犬が愛嬌をふりまく。この可愛い子犬も羊に近づく不審者を撃退するために歯をむき出す逞しい犬に成長するに違いない。

                     

                    おじいちゃんとおじさんの手は乾燥した足のかかとのようで、とても固そうでヒビ割れている。雨が降っても、雪が降っても、どんなに辛くても毎朝4時から夜9時まで羊の世話やチーズ作りをするのが彼らの仕事だ。ポルトガル人は本当に働き者、顔にも手にも極上の年輪を感じる。

                     

                    カステロ・ブランコに近づくと平坦な道が続く。観光局でレジテンシャル(ペンション形式の旅籠)を4500エスクードで紹介してもらう。オーナーはインド人である。政情不安のアンゴラやモザンビークからポルトガルに移住して来るポルトガル語圏のインド人が大勢いる。両国とも、かつてポルトガル植民地だったのが起因している。

                     

                    そして、何故かペンションなどの宿泊施設を家族や親類で経営しているケースが多い。私たちが泊まった宿だけでも、3軒目である。奥村さんの体調は再び崩れ、食欲がない。一方、春子は元気いっぱい。「お腹がすいて、すいて」と奥村さんの気もちを察することもなく、無神経にはしゃぐ。世代の違いと言ってしまえばそれまでだが、この自己中心的神経とまわりの様子を気にも留めない図々しさは、たいしたものだ。

                    ポルトガルの窓から日本が見える No.30

                    2016.12.17 Saturday

                    0

                      ポルトガルの窓から日本が見える

                       

                      文:吉田千津子 写真:奥村森

                       

                       

                       

                      Antique bed of Pousada Santa Isabel ポウザーダ・サンタ・イザベルのアンティーク・ベッド

                       

                       

                      由緒ある町・エストレモス

                       

                      連日の強行スケジュールで、普段でも細身の奥村さんが一層痩せ始めた。ここ2〜3日、スープとサラダしか食べずに400キロ以上ドライブし続けて来たのだから。奥村さんの体調を象徴するかのように、景色も南下するに従って緑の牧草は消え、荒涼とした岩と灰色の平原が地平線の彼方まで続く。

                       

                      その荒野には、オリーブの木と皮を剥ぎ取られて赤茶けたコルクの木が雑然と植えられている。木々の合間には牛や馬の群れが三々五々たむろし、羊は首に付けた鈴を「カランコロン」と鳴らしている。この春に生まれたばかりの子羊は、母羊に寄り添うようにして歩く。

                       

                      予定では、あと2日でリスボアだ。到着したら宇宙人の春子は仕事の都合で帰国するのだという。彼女には悪いが、私は付き合うのに疲れはてた。写真を撮りながら、午後2時頃エストレモスに到着。今日の走行距離は200キロ。私たちにとってギマランイスに続いて2度目のポウザーダ泊まり、興味津々。

                       

                      「ポウザーダ・サンタ・イザベル」は要塞として造られた立派な建物だ。かつて、ここにデニス王とイザベル王妃が住んでいて、慈悲深い王妃は民衆からとても崇拝されていた。アレンテージョ地方は土地も痩せていて、人々の生活は貧しく苦しかった。王妃はデニス王の反対にもかかわらず、民を思い親身になって援助をしたという。

                       

                      また、ヴァスコ・ダ・ガマは15世紀にインド諸島航海の際、この要塞でマヌエル王より国王の旗印を与えられたとのことだ。この建物は歴史的に由緒があり、1970年にポウザーダとして改装され現在に至っている。

                       

                      私の部屋は28号室で廊下の奥の角部屋、ポウザーダ前にあるイザベル王妃の像が窓から良く見渡せる。ベッドは17世紀の赤いビロード屋根のついたアンティーク・キャノピーベッド、このタイプの家具はインド・ポルトゲーザと呼ばれている。独特な「ねじりかりんとうの形」のデザインはインドとポルトガル感覚をミックスして出来た賜物だ。このアンティークベッドは高さが腰のあたりまであるので、よじ登らなければならない。

                       

                      部屋は古い素材を活かすためか、木枠窓は歪んで閉まりも悪い。その夜、運悪く暴風雨に見舞われた。窓の隙間から風がビュンビュンと唸り声をあげる。雨は降るし、近所には食べる所もなさそうなので、仕方なくポウザーダで食事をすることにする。ギマランイスではジーンズ姿で食事をして、恥ずかしい思いをした奥村さんはスーツにネクタイで食堂にやってきた。

                       

                      ところがギマランイスのポウザーダとは違い雰囲気はとてもカジュアル、せっかく盛装をして来た奥村さんは残念ながら浮いてしまっていた。食事も終わり久しぶりにテレビをつけて、ガチャガチャとチャンネルを回していると日本語放送をしているではないか。しかし、電波が遠いのか暴風雨のせいか、ほとんど映像は映らず音だけが聞こえ、まるでラジオである。

                       

                      不思議なことに、コマーシャルの時間になると突然映像が鮮明になるのにはまいった。そういえばセトゥーバルの画家・武本比登志さんが「今はポルトガルでも日本のテレビが見えるんですよ」と言っていたのを思い出した。