ポルトガルの窓から日本が見える No.11

2016.12.14 Wednesday

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    ポルトガルの窓から日本が見える

     

    文:吉田千津子 写真:奥村森

     

     

     

    Dogs 道路を横断する犬たち

     

     

    アルコバッサの犬

     

    アルコバッサに滞在して2日目、今日はレストラン「フレイ・ベルナルド」(ベルナル僧)でフランゴ・ナ・プカラという蛸壺の形をした茶色の素焼きの器に入ったトマトとオリーブ味のトリの煮込みを食べることになった。ホテルの女主人から「アルコバッサに来たら、絶対にこれをたべなきゃ」と美味しい郷土料理情報を仕入れていたからである。サンタ・マリア修道院脇の路地を入った所に、そのレストランはあった。見るからに歴史を感じさせる造りのレストラン、天井も高さ5メートルはゆうにあろうか、とにかく立派な建物だ。

     

    フランゴ・ナ・プカラは、注文してかなり経ってからウェイターがうやうやしくテーブルに運んできた。大きな皿に大きなぶつ切りのトリが3個ボンと乗せられ、それにご飯と野菜、フライドポテトが皿から溢れんばかり、味はマイルドでさっぱりして美味しい。この町の料理は全般的に上品でポルトガルの京都味といったところか。

     

    私たちが日本のレストラン雑誌から依頼された原稿締め切り日が迫っているというのに春子は焦る気配もない。食事が終わって一段落したので「原稿どうなっている」と、しびれをきらした奥村さんが尋ねる。「今晩までに仕上げるように」、普段もの静かな奥村さんにしては、きつい口調で春子に指示。それもそのはず、彼が出国する前に取ってきた仕事なので責任を感じているのだ。

     

    ところが何度書き直させてもダメ、コピーライターだというのに国語の基本もまるでなっていない、とうとう奥村さんが代筆することとなる。春子は、ポルトガル取材旅行計画に積極的な参加意思を示し、これまで彼女が書いた制作物などの実績を確認した上で同行を認めた経緯がある。奥村さんは、カメラマンとライターを兼ねてすることを決意、春子は不満顔で「日本にいればワープロも資料もあるから書けるのに」と愚痴をこぼす始末。

     

    日中、町をウロウロ探索したが、面白い被写体に出会うことはなかった。夕食を終えてサンタ・マリア修道院前のロータリーにさしかかった時、ゾロゾロと何やら列をなして歩くものがいる。よーく目をこらすと大、中、小、茶、黒、白、ぶち、101匹ワンチャン大行進よろしく7匹の犬が一列になって修道院前の道路をまさに横断しようとしている。

     

    ビュンビュン車が走るロータリーなので、この犬たちがひかれはしかいかとヒヤヒヤしながら見ていると、中央の芝生の上で一旦ピタッと全員が止まりトラックや車をやりすごす。そして、おもむろに車の来ない時をみはからって横断歩道を行儀よく渡るのだ。そういえば、ポルトガル人の乱暴な運転マナーにもかかわらず、これまで一度も車にひかれて死んでいる犬を見たことがなかった。

     

    犬といえばペニッシュの港にいた黒い異常に痩せこけたラブラドールのような品の良い顔つきの子犬を思い出す。私がその犬に視線を向けると、前足を車にひかれたのだろうか、ブラブラとさせながらつぶらな瞳でこちらを見つめ「何かもらえるのではないか」と私に懇願するように近寄ってくるのだ。

     

    あいにく食べ物の持ち合わせもない上、何か買い与えようにも店はシーズンオフで何処も閉まっている。じっと見ているのが辛くなり、奥村さんに目を向けると高い堤防の上で撮影に余念がない。私も春子と堤防に上がってみる。犬はここまでは上がれないと諦めたらしく、ヨロヨロと通りの方へ帰って行った。

     

    私は痛みと悲しみを感じ「その後、どうしているのだろうか」と気になっていたが、帰りぎわに人の去った屋台の隙間に、その犬はチョコンと座っていた。きっと彼の住みかに違いない。雨露ぐらいはしのげるだろうが、これから大西洋の冷たい風が吹き込んでくる。冬ともなれば一層寒さは厳しい。私は。後ろ髪を引かれる思いで、その場を去った。ポルトガルの捨て犬はボロッチーが賢さと哀愁を感じる。それに比べ、人間は身なりは立派だが中身は怪しい。困ったものだ。 

    ポルトガルの窓から日本が見える No.12

    2016.12.14 Wednesday

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      ポルトガルの窓から日本が見える

       

      文:吉田千津子 写真:奥村森

       

       

       

      Meadow in Serradealcobaca  セラ・アルコバッサの牧場

       

       

      ポルトガル生活事情

       

      言い忘れていたが、カルダス・ダ・ライーニャからアルコバッサへ行く途中にう村を通った。セラとはポルトガル語で丘と言う意味だ、その言葉どおりセラ・アルコバッサは丘の中腹にあった。家々がポコッポコッと点在する過疎の村、グニャグニャ道で急停車。そこは一軒の農家前、1台の旧式トラクターを素朴で澄んだ目をした20歳位の青年が整備、その脇でもう1人、前歯が2本しかないおじいさんが青年と話し込んでいた。

       

      おじいさんは74歳で「わしの母親は100歳と5ヶ月まで生きたんじゃ、すごいじゃろう」と得意満面、そして今は年金暮しで毎月、2万エスクード(2万円足らず)貰っていると話してくれた。おじいさんのお喋りは際限なく続く、余り相手ばかりもしていられない。この家の主人に挨拶すると「フィゲレイドです」と名乗った。

       

      フィゲレイド家は、夫妻と2人の息子、そして、おばあちゃんの5人家族である。おばあちゃんは、黒装束で身をかため椅子に座り、皆の動きを観察している。おばあちゃんはポルトガル女の典型、丸々として元気そのもの。「ポルトガルの田舎でも都会に行きたがる若者が増えて過疎化が進み、日本と同じ悩みを抱えている」と彼女は語る。幸運なことに、2人の息子は田舎に残り両親と一緒に農業をしたいと望んでいるようだ。

       

      裏庭は足の踏み場もないほど牛や馬の糞でいっぱい、スゴイ臭い、おまけに蝿はブンブンと飛び回る始末。母屋前の庭には、ニワトリと2匹の黒猫が仲よく一緒に寝そべっている。猫はネズミを取るからと重宝がられ、藪の中や庭など、そこいらじゅうに徘徊している。

       

      ポルトガルの犬にしては珍しく、綱に繋がれた2匹の犬が見知らぬ東洋人に向かって吠えまくる。庭に踏み入れると靴が糞まみれになるほどのぬかるみ、それでも好奇心から奥の牛舎を覗くと真っ暗な小屋に黄色い牛が一頭、餌を食べている。2本歯のおじいさんは、この牛を買おうと見に来たのだ。

       

      彼は「この牛は年をとっておるのでダメじゃ」と小声で私に耳打ちをした。そして間もなく主人に別れを告げて去っていった。私たちも失礼することにした。私が「田舎暮らしは泥まみれ、しかも臭くて大変だわ」と呟くと、「これが本当の人間の生活さ」と奥村さんは言い放った。

      ポルトガルの窓から日本が見える No.13

      2016.12.14 Wednesday

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        ポルトガルの窓から日本が見える

         

        文:吉田千津子 写真:奥村森

         

         

         

        Sun-dried fish in Nazare ナザレの魚天日干

         

         

        どちらが本当のポルトガル

         

        今朝、アルコバッサを出発する前に春子に代わって奥村さんが書いた原稿をホテルからファックスで日本に送る。8枚送るのに30分以上もかかった。もっと驚いたことに代金がなんと17600エスクード、8で割ってみると1枚が2200エスクードとなる。この4つ星ホテルの宿泊費が1泊、1人、6000エスクードだから、ほとんど3日間のホテル代に匹敵する。「えー、ウソ、ホント」と春子は叫んだ。

         

        リスボアのペンションでは、ファックス代は500エスクードだったのに、ボラレたのかもしれない。私は文句も言わずに払ってしまった、一生の不覚、後悔しきり。「明日、観光局の人に言いつけてやるぞ」いくらなんでも酷すぎる。ホテルの女主人は「これでも郵便局より安いのよ」と嘘をつく、バカヤロー。

         

        今日の取材は、観光地ナザレ、バターリャ、それにカトリックのメッカ、ファティマである。ナザレは、アルコバッサから12キロ離れた町、夏になると賑わう観光客の姿は今はなく、みごとな白砂の浜辺に荒波が打ち寄せ、カモメの大群が砂浜をギャーギャーと鳴きながら占領している。

         

        ナザレは観光地にもかかわらず純朴な人が多く、とても親切で感じが良い。海岸では地元のおばちゃん達が2、3人忙しく働いていた。50代とおぼしき日焼けしたおばちゃんは「わたしゃ、もの心ついた時から、ここで働いているよ」といいながら大きな洗面器に入った塩水の中からザッーと、あじの開きをすくい上げる。それを砂浜に陽が当たるよう、斜めに立てかけた一畳ほどの大きな網に規則正しく並べてゆく。もう200枚以上はあるだろうか。あじの干物は2日間海岸で天日干しされて出来上がる。

         

        この時期、彼女たちは朝4時から夜9時頃まで働くのだという。元気のよさには感服する。だが、ここでも若者はカッコよい仕事につく傾向があり、漁業の後継者問題は深刻だとおばちゃんはボヤいていた。ポルトガルで有名な鰯(いわし)は、夏ではなく1月に干すのだそうだ。

         

        ナザレからバターリャ、ファティマに向かう。途中ガソリンを入れる。無鉛ガソリンは1リットル145エスクード(116円)なり。バターリャの町は小さいが、その規模に不釣合いな大聖堂がある。この大聖堂にはジョアン1世が祭ってあり、聖堂内はゴシック様式とエマヌエル様式が調和して独自の美をかもしだす。

         

        ファティマは世界中のカトリック信者巡礼のメッカで、1917年5月13日に3人の羊飼いの子供が「ロザリオの聖母」をコーヴァ・デ・イリアで見たことがきっかけとなり、毎月13日には敬虔な信者が集まる。とりわけ、5月13日と10月13日にはポルトガルをはじめ世界各国からのカトリック信者が来訪、広場はうめ尽くされる。

         

        私たちが訪れた日は30日、人はまばらだが聖堂の側ではローソクを灯して祈る信者、広場から聖堂に続く長い歩道を膝まづいて祈りながら聖堂へ歩む信者の姿がポルトガル人の信仰心の深さを象徴する光景だった。私たち日本人は、冠婚葬祭などの宗教儀式以外は神仏と関わることも少ないが、ファティマの日常的な信心の深さを見るにつけ、日本人のご都合主義な宗教観が浮き彫りとなって見えてくる。イミテーション社会を反省すべきだとつくづく思う。

         

        陽も暮れはじめ、そろそろ宿を探さなければならない。つぎの目的地、コインブラに向かう。ファティマからコインブラまでは93キロの道のりだが高速道路を利用したので、あっという間に到着、高速料金は700エスクード(560円)。

         

        大学都市・コインブラはポルトガル第3の都市だけあって、交通量も多く人口密集地なのでホテル探しのための駐車もままならない。人々もセカセカとして落ち着きがない。市内での宿泊を諦め、郊外の宿を探すことにする。だが、何処も満員、おまけに料金がベラボウに高い。

         

        もと来た道を引き返すと、コンデシャという町に出る。この町は、コインブラとローマ遺跡で有名なコニンブリガの中程にある。夜なのに街灯もなく真っ暗で寂しい。これ以上探しても宿が見つからない。仕方なしに目の前のボロペンションと交渉開始、背の高いおじさんが出てきた。私たち以外に客の気配はない。おじさんは「部屋はこちらです」と案内してくれる。

         

        ポルトガルで宿泊する際には、必ず部屋を事前に見てから宿泊料の交渉をする。部屋はガタガタのベッドにタンスだけの粗末なもの、予算節約のため、この程度の宿でガマンすることにする。ところが交渉にはいると、このおじさんがなかなかの曲者「お1人様1晩、1万エスクードです」という、そんな馬鹿な、春子でさえも怒っている。

         

        「4つ星ホテルでも6千エスクードで泊まれるのよ、馬鹿も休み休み言いなさい」とさっさと帰ろうとすると、このおやじ「それじゃ、3人で1万2千エスクードにします」と慌てていう。もう遅い、私たちは充分に気分を害している。

         

        そこで「私と春子で9千にしたら、泊まってあげる」とブッキラボウに言う。彼は折れて交渉成立。1人3千エスクードでも高いぐらいだが、夜も更けているので仕方がない。部屋の壁には十字架が、机の上にはマリヤ様が描かれた聖書が置いてある。「カトリック信者の恥さらしめ」私は宿のおやじを思い出して叫んだ。

         

        ポルトガルに来てからポルトガル人は素朴で親切で働き者というイメージがあったので、このおやじに会ったショックは大きい。「どんなところにも、厭な奴はいるものだ」そう自分に言い聞かせるしかない。それでも収まりがつかない私は「顔は日本人だが日系ブラジル人だ」と大嘘をついた。

         

        失礼なことをされて泣き寝入りする馬鹿な東洋人には絶対になりたくないと思ったからだ。今日一日で、神聖なポルトガルと下劣なポルトガルを見せつけられた思いだ。

        ポルトガルの窓から日本が見える No.14

        2016.12.14 Wednesday

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          ポルトガルの窓から日本が見える

           

          文:吉田千津子 写真:奥村森

           

           

           

          Coimbra Library コインブラ図書館

           

           

          コインブラの一日

           

          昨日降った雨もやみ、今日はコインブラの取材。四つ星ホテル・チボリ・コインブラにチェックイン、新築の明るいホテルだったのでひと安心。観光局のクリスチーナが迎えに来てくれる。彼女はコインブラ大学卒のエリート、ちょっと丸くて肌は浅黒い。リスボア観光局のジョアナに比べると愛想はないが笑うととても可愛い。

           

          この町はコインブラ大学を中心に発展した都市、他のポルトガルの町が若者の流出で高齢化が進むなか、珍しく若い学生で溢れている。コインブラ大学には古い歴史がある。とりわけ図書館は18世紀バロック後期の造りで、天井は天使のネオ・クラシック調の絵で飾られ、家具はブラジル独特の木・シンテッコで作られ荘厳な雰囲気、建物ひとつ見ても博物館そのものだ。

               

          本棚は、ポルトガルの植民地だったマカオを彷彿とさせる中国風の細かい金泥細工が施され、館内は西洋と東洋がうまく融合して独特な文化を生み出している。その棚は、床から天井まで整然と並べられた貴重な歴史的書物で埋めつくされている。ここに保存されている本は50万冊もあり、全てマイクロフィルムに納められ、当館地下の閲覧室で見ることが出来る。

           

          この資料の中には「プルグリナソン・デ・フェルノン・メンデス・ピント」という日本に関する古書も含まれているとのこと、許可が下りれば撮影可能かも知れないと奥村さんは興奮気味。大学のすぐ側には、ムゼウ・ナショナル・デ・マシャード・デ・カストロ(マシャード・デ・カストロ国立博物館)がある。この博物館には、ローマ人が造った地下道があり圧巻そのもの。この地を観光で訪れる人は必見の価値がある。

           

          市内にあるセ・ノーヴァ(新カテドラル)とセ・ヴェーリャ(旧カテドラル)を見学した後、コニンブリガへと向かう。コニンブリガは前記の通りローマ遺跡で有名な所だ。ここからローマまでモザイクの道で延々と結ばれていたという。この大規模なローマ遺跡はまだ発掘が一部しかなされていないが、完了すれば画期的な歴史遺産になることだろう。それにしても、この壮大なロマン、ローマは偉大なりだ。私達が訪れた時、4、5人の若者が発掘に精を出していた。彼等は大学で考古学を専攻し「実習で発掘の手伝いをしているんだ」と語った。

           

          夜はクリスチーナに世話になったお礼に食事をご馳走することにする。彼女は「美味しいレストランを知っているから、そこで夕食をしましょう」と提案。食いしん坊の私たちは早速でかけることにした。

           

          コニンブリガを出ると真っ暗で舗装もしていないガタガタ道、そのうえクリスチーナの運転がF1レーサー・セナよろしく「飛ばすは、飛ばすは」寿命が縮む思いだった。コインブラから19キロ離れたカンタニェーデという小さな町に、そのレストランはあった。こじんまりとした一軒家で、中に入ると家庭的な雰囲気のレストランだ。すでに1組の家族が食事をしている。

           

          まずは食前酒、そしてオードブル「なんだこれは」私たち3人はオッタマゲてしまった。オードブルの皿が60センチ以上はゆうにある、丸ごとキャベツがドンと半切りした状態で、直径10センチのチーズの塊が3種類、大きなサラミが1本丸のまま、メロンの大切りにパイオ(ハムとサラミのあいのこ)とフレッシュ・チーズが数えきれないほど沢山ブスッブスッと大胆にナイフで刺して盛ってある。

           

          こんなオードブル見たことない、これがオードブルならあとはどうなるのだろう。大食漢の春子と私でさえ恐怖におののいた。小食の奥村さんは目を白黒させて「どうしよう」とキョロキョロしている。実は、私たちがショックだったのは量だけではなかった。

           

          昨日から贅沢をしすぎて予算オーバー「今日は粗食で」と決め込んでいたからなおさらである。3人は食べる前から胃が重く、気分が悪くなっていた。オードブル後も、ご馳走が「出るは、出るは」もうこうなると拷問だ。ホテルにたどり着いた時は、皆疲れきって食べ物の話をするのも厭になっていた。

           

          ポルトガルの窓から日本が見える No.15

          2016.12.14 Wednesday

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            ポルトガルの窓から日本が見える

             

            文:吉田千津子 写真:奥村森

             

             

             

            Palace Hotel do Bussaco パラス・ホテル・ブサッコ

             

             

            パラス・ホテル・ブサッコ

             

            コルク樫のうっそうと茂った並木道、クネクネと曲がった坂を登りきると来訪者をチェックする監視所がある。そこで、私たちの名前を告げホテルの敷地内に入る。5つ星ホテル「パラス・ホテル・ブサッコ」今日、私たちが泊まる宿だ。

             

            ここは修道院として1600年代に建造されたが、1882年になってホテルとして改築、今日に至っている。入口にはジョアン・ペドロ時代の由緒ある家具、広く赤い絨緞を敷き詰めた側面の壁にはフレスコ画、アズレージョ(ポルトガル特有のタイル壁)には「ブサッコの戦い」「セウタの征服」「ナポレオンのポルトガル侵入」の三部作が白と濃紺で鮮やかに描かれている。

              

            「ナポレオンのポルトガル侵入」は、ナポレオン2世率いるフランス軍がポルトガルに侵入、迎え撃つポルトガル軍は、援軍として駆けつけたウェリングトン将軍率いるイギリス軍と共に戦い抜き、ついにフランス軍を撤退させるという話。

             

            各部屋のインテリアは、ピンクの部屋、ブルーの部屋など色とりどり。私の部屋はベッドが異常に高く、洪水になっても大丈夫なほどだ。ヘッドボードはイタリア製の彫刻が施され、とにかく立派だ。だが、暖房器具は設置されているのだが、故障しているらしくとても寒い。ホテルの人が親切にも電気ストーブを持って来てくれたが、なにしろ天井の高い大きな部屋では、なかなか暖まらない。

             

            一向に効果のないストーブに寒さを凌ぐ覚悟を決めた私は、有効利用としてこれまでため置いた洗濯物を洗って、そのストーブの上に干すことにした。ほどよい温度のためか朝までに完全に乾き満足、満足。

             

            この近くにミネラルウォーター「ルーソ」として全国にしられる良質の水が湧き出ることもあってか、水の味は最高。顔を洗うとツルツルになる素晴らしい天然水である。ブサッコ周辺はバイラーダ地方と呼ばれ、郷土料理は子豚の丸焼きだが、頭もついているので睨まれている気がして余り気分はよくない。それに南部鉄のような鍋で料理されたヤギのワイン煮である。この2つが代表的な郷土料理と言える。

             

            このホテルの自慢はワインセラーである。「パラス・ホテル・ブサッコ」は4つのホテル・チェーンがあり、それぞれで消費されるワインを独自で生産している。一年の生産量は約8万本。ホテル製ワインは決して小売しないので、ワイン飲みたさに宿泊する人もいるほどでヨーロッパでも人気らしい。ここのワインは付加価値があるにもかかわらず値段はほどほど、1100エスクードくらいから飲めるので嬉しい。

             

            この日も、スペインのワイン・クラブメンバー15人がヨーロッパ各地のワインのテイスティングをしながら優雅な旅をしていた。ワインの瓶づめ、ラベルはり、瓶の洗浄まで、すべて手作業。瓶の外側はぬるま湯でよく洗う、内側のくもりは特殊な砂を入れて丁寧に洗い再利用、このリサイクル精神を日本の企業も見習うべきだと思う。ワインが客に供されるときに、初めてラベルをはるという手のこみよう。

             

            マネージャーのセニョール・リベイロは、アラン・ドロンに似たハンサムで感じのよい人だ。彼は「このホテルでは、イギリスのエリザベス女王やチャーチル元首相も滞在されワインを楽しまれたことがあるんですよ」と誇らしげに語る。そういえばロビーから部屋に向かう通路の壁に歴史的人物がこのホテルに宿泊した際、撮った記念写真の数々が飾られていた。

            ポルトガルの窓から日本が見える No.16

            2016.12.14 Wednesday

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              ポルトガルの窓から日本が見える

               

              文:吉田千津子 写真:奥村森

               

               

              Small boat アヴェイロ運河のモリセイロ(小舟)

               

               

              子豚地方と狂犬

               

              ブッサッコを出発してアヴェイロへ向かう。メリャードという小さな町にでる。この町はコインブラとポルトの分岐点に当たり、私たちは、これからポルト方面に進み、途中のアヴェイロに立ち寄る予定だ。道路の両側には、屋根に大きな煙突のあるレストランが建ち並び、モクモクと噴き出す煙があたり一面を包む。どのレストランも日曜日とあって長蛇の列、ワイワイと賑わいお祭り騒ぎだ。

               

              どう見ても、この町の規模には不釣合いな光景だ。丁度、昼時なので、そのお祭り騒ぎに加わることにした。外で待っている間、イライラするポルトガル人は1人もいない。みんな楽しそうに話に夢中になっている。レストランの中は戦場さながら、ウェイター達がコマネズミのようにテーブルとテーブルの間を行ったり来たり。食事を終えた客は、長さ80センチ以上もあろうかと思われる紙箱をかついでいる。「あれは何だろう」私はぼんやり眺めていた。

               

              混んでいるので、なかなか注文を取りに来てくれない。随分待たされたあげく、やっとのことで魚介類のオジヤ風とイカのグリルを注文、ホッとする。ところがまたしても注文したものがなかなか来ない。他の人の注文は直ぐ来るのに、不思議に思い観察してみると、ほとんどの客は子豚の丸焼きを食べているではないか。

               

              そうなのだ、ここは子豚地方。こんな所でシーフードを食べる田舎者はいない。私たちは場違いな料理を注文した変な東洋人になってしまった。3人で苦笑。そして、先ほどの紙箱の中味は子豚の丸焼きと判明、テイクアウト用のものだった。それにしても皆うやうやしく持つ姿には、まいった、まいった。

               

              いよいよアヴェイロ。アヴェイロは日本の大分市と姉妹都市縁組をしている。今日の宿はホテル・アルカダ、町の中心にあるロータリーに面している。部屋の窓からロータリーを見下ろすと、中央にオワンをひっくり返したような形の木々が茂り、夕刻には、そこをネグラにする無数の鳥たちで喧しい。

               

              町の中心部には、運河が流れている。ベニスのゴンドラを模した色彩豊かな「モリセイロス」と呼ばれるボートが2、3隻浮かんでいる。以前に資料で調べておいた、牛が曳く地引網を見ようと海岸まで行ってみる。だが、今は10月、夏も終わり海が荒れるので今年はもう終わってしまったとのこと。残念。

               

              帰途道を間違え、うっそうと茅の茂った原っぱに出てウロウロしていると、突然、どこからともなく数匹の野犬と化した野良犬がもの凄いけんまくで歯をむき出し、私たちの車に突進して来た。その姿はライオンにも似て、さながらアフリカのサバンナに来ているようだった。私たちは車の窓をしっかりと閉め発進しようとするが、犬たちが前方を塞ぎなかなか発進できない。まかり間違って車のガラスでも割って中に飛び込んでこようものなら、この状況では狂犬病にもなりかねない。私たちに緊張が走る。やっとのことで犬たちを振り切り命からがら、その場を抜け出すことができた。この時ほど車が有難く思えたことはない。 

              ポルトガルの窓から日本が見える No.17

              2016.12.15 Thursday

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                ポルトガルの窓から日本が見える

                 

                文:吉田千津子 写真:奥村森

                 

                 

                 

                Wine boat of Douro river ドウロ河のワイン運搬舟

                 

                 

                ポルトのワイン事情

                 

                アヴェイロからアウト・エストラーダ(高速道路)で1時間足らず、ポルトガル第2の都市ポルトに着く。ポルトはドウロ河沿いに開けたポルトガルの産業中心地である。ドウロ河には3つの橋が架かっているが、その中のひとつルイス一世橋を渡って対岸の町、ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイヤへ行くことにする。

                 

                ルイス一世橋は2段構造になっている。創設当初は上段が一般者の通行、下段はワイン工場や関連企業の通行路となっていたが、今は一般通行路として上下段とも使用している。この橋の設計者はパリ・エッフェル塔で有名なエッフェル一門のベルギー人とのこと。

                 

                ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアには、数10社のワイン会社のカヴェ(酒蔵)があり、日本でポピュラーなポルト・ワインも貯蔵されている。かつてはワイン生産の本拠地だったこの周辺も、現在ではドウロ河上流の村、ピニョンに移した会社が多い。一般観光客にワインを普及するためのショールームやワインを寝かせる酒蔵として活用しているので、いまだに「ワインの町」という風情を残し営業拠点として現役を保っている。

                 

                私たちが取材をしたワイン会社「オズボーン」は、1772年に設立されたスペイン人のオーナーの会社だ。可愛い栗色の髪の女の子、ロザリアが私たちを案内してくれた。薄暗く音ひとつしないひんやりとしたワイン蔵の中には、大きな樽が無数に横たわっていた。大きいものは直径5メートル以上もあるだろうか。ワインは9種類のブドウを原料として最低3年は寝かせて出荷するのだそうだ。「6種類の赤ワインと3種類の白ワインを製造しています」とロザリアは童顔に笑みを浮かべて丁寧に説明してくれる。

                 

                ポルト・ワインの糖分は発酵を1日で止めたもの、2日で止めたもの、そのまま置いたもので糖分のパーセンテージが変化する。1日で止めたものはスイート、2日はミディアム、そのままのものはドライになるというのだ。醗酵を止めるにはブランディーを加えればよい。ポルト・ワインは、長く置く程まろやかで色が透明なワインになるそうだ。

                 

                この蔵での年代ものは20年前に貯蔵したものだと言う。試飲も沢山させてもらった。いろいろ飲みすぎて最後にはどれがどれか判らなくなり、奥村さんと春子は顔を真っ赤にしながらもロザリアの好意に応えようと必死に飲んでいる。ところでポルトガル特産のポルト・ワインといっても、やたら外資系の会社が目立つ。これは、ちょっと寂しい話だ。

                ポルトガルの窓から日本が見える No.18

                2016.12.15 Thursday

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                  ポルトガルの窓から日本が見える

                   

                  文:吉田千津子 写真:奥村森

                   

                   

                   

                  Wedding ceremony 結婚式

                   

                   

                  ポルト百景

                  今日10月5日は、ポルトガル共和国制宣言記念日で祭日。朝は晴れていたのに、あっという間に大雨、そうかと思うと雲が切れて明るくなる。これが典型的なポルトガルの天候。雨があがったので、対岸にある「ノッサ・セーラ・ド・ピラール修道院」の展望台にタクシーで乗りつける。380エスクード。

                   

                  少々霞んではいたが、ドウロ河にかかるルイス一世橋と対岸のポルト市街が美しい。180度のパノラマ風景で一望することが出来た。ポルトは、ポルトガルという国名の発祥の地でもある。今のポルト市街を「ポルトゥス」、対岸のヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアを「カーレ」と呼び、「ポルトゥカーレ」がポルトガルという名称になったと言い伝えられている。

                   

                  「昨日取材したワイン蔵の家並みを高台から撮影したい」という奥村さんの要望もあって、石畳の坂道を3人でドンドン登る。しかし、どこまで登っても全貌を見渡すことは出来ず諦める。帰り道、ワイン蔵とおぼしき広い屋根の上に2〜3匹の猫がノンビリ昼寝をしている。その脇には、ビニールで作った簡易猫小屋がある。

                   

                  道路ぞいの柱に紐を渡し、15歳位の女の子が洗濯物を丁寧に干していた。両親は共働きで多忙、彼女が兄弟の面倒や家事を一切きりもりしているのだという。なんだかテレビドラマ「おしん」のシーンの一場面を見ているようだ。

                   

                  坂道を下りきると、あのルイス一世橋、歩道は人ひとりがやっと通れる幅しかない。遠くから見るこの橋は、のどかなものだが、見るのと現実は大違い。風はビュンビュンと吹きまくり鉄橋から振り落とされそうになるほどの激しさだ。

                   

                  橋をポルト側に渡りきると幅の広い急な階段があり、両側の家の窓から窓へと干し紐が結ばれ、そこに干された洗濯物がパタパタとはためいている。突然、わたしの脳裏に「ポルトガルの洗濯女」の歌が流れた。左右に小さな家々がひしめき、子供たちが私たちにお金をくれとせがむが無視して階段を登り続ける。

                   

                  すると、数人の子供達が日本とまったく同じコマを回して遊んでいた。ポルトガルではコマを「ピァン」と言うのだと子供の1人が教えてくれた。コマは貧しい子の遊び道具だったのかなあ、と考えたりもしたが素朴で無心に遊ぶ子供達を見ると心うたれるものがある。

                   

                  コマは、ポルトガルから日本に渡って来たものか、日本からポルトガルにもたらされたものかは判らないが、歴史の因果を感じさせられた。階段を登りつめるとカテドラル前の道に出る。カテドラルは高台にそびえ立ち、そこから下町の生活が手に取るように見える。

                   

                  3匹の犬がダンゴ状に走るさま、窓から母子がのぞく姿、ごみバケツにリサイクルビンを満杯にしては緑色の宇宙船型をした大きな集積容器に何度も繰り返し運び入れるおばちゃん、ハンティングをかぶった5〜6人のおじさんたちの道のど真ん中での討論、そうかと思えばボーっと椅子に座っているおじいさんもいる。両手に山ほどの荷物を持ったおばさんは、近くの露店で買ったのだろうか、オレンジがカゴから溢れんばかりに顔をのぞかせている。この地域の生活の匂いがして長いこと眺めていても飽きることはない。

                   

                  そうこうしていると突然、大粒の雨がまたしても降ってきた。ポルトガルの天候はラテン気質そのものだ。ザーと降ってパット止む、キツネの嫁入りを一日に何回も繰り返している。仕方なく教会の中へ雨宿りする。中では結婚式の真最中、単調なカトリックの賛美歌が流れる。雨のために結婚式に無縁の人達がゾロゾロと参列、広いカテドラルの低い石柱に銅像のように座っている。私もそのなかの1人。

                   

                  長く座っていると底冷えがしてなかなか厳しい。奥村さんは、ポルトガルの結婚式を撮影したいと言い出す。式が終わって新郎新婦が外に出て来るまで待つと言うのだ。結局このセレモニーは、なんと11時から午後の1時まで2時間続いたのである。

                   

                  新郎新婦がカテドラルから出る頃には、雨も止み青空が広がっていた。奥村さんは、ずっと粘り撮影開始。新郎26歳、新婦27歳のカップル。2人は、この近郷の出身でポルトで知り合い結婚、敬虔なカトリック信徒ということで40人もの司祭を招き、それぞれが祝辞を述べたので2時間もかかってしまったと言う。きっと、名門家族の出でもあったのだろう。

                   

                  外では結婚式の記念写真撮影が始まった。カメラマンは女性、日本ではもうアンティークに属すると思われる上からのぞく二眼レフカメラでのんびりと撮影している。一方、奥村さんはニコン片手にチョコマカと動き回り、カメラウーマンよりも前にシャシャリ出てパチパチと写真を撮りまくる。カメラウーマンの影がうすくなり、どちらが撮影しているのか判らない。

                   

                  奥村さんが前に立つと、200人もの人が一斉にニッコリと笑うのがおもしろい。カメラウーマンもぜんぜん気にする風もなく、奥村さんが撮影するあいだ待っていてくれる。何とおおらかな。「やっぱりポルトガル人は気が長く人がいい」。日本では考えられないことだ。

                   

                  日本なら、縁もゆかりもない何処の馬の骨だかわからない奴が、突然撮影に乱入し邪魔をしたら絶対に嫌な顔をされること間違いなし。おまけに奥村さんは調子にのって、新婦と腕を組んで記念写真のモデルにまでなる始末、ここまでくれば見上げた度胸だ。この幸運で、昨日から雨で写真を撮れなくてクサッテいた奥村さんは急に元気になり、満足な笑みを浮かべた。

                  ポルトガルの窓から日本が見える No.19

                  2016.12.15 Thursday

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                    ポルトガルの窓から日本が見える

                     

                    文:吉田千津子 写真:奥村森

                     

                     

                     

                    Scenery from pousada ポウザーダから望む風景

                     

                     

                     

                    ミーニョ地方 腐っても鯛

                     

                    ポルトから北上してヴィアナ・デ・カステロへ向かう。道路標識は、なぜかヴァレンサと書いてあり、もう少しで間違った道に入るところだった。あとで知ったのだが、今はヴィアナ・デ・カステロをヴァレンサと呼ぶそうだ。

                     

                    12時40分、ヴィアナ・デ・カステロ到着。観光局へ行くように言われていたので、早速訪ねたが事務所は閉まっている。12時30分から14時30分までは、昼食時間で昼休みとドアに書いてある。ポルトガルの昼休みは、日本と違ってゆっくり2時間とるのが普通だ。

                     

                    私たちも昼食をとることにした。性懲りもなく私たちは、またも3人前を注文してしまい量が多すぎて3人とも降参。腹ごなしにと市内観光をする。レストランの直ぐ隣にみやげもの屋があり、その店先では2人の若い女の子がポルトガル民族衣装には欠かせない赤や緑の原色のスカーフに縁飾りを付けている。

                     

                    16歳と19歳の針子に尋ねると、通常、この地方では14歳から15歳ぐらいから恋愛をして17歳から20歳の間に結婚するのだと言う。昔の日本を思い出す。彼女たちの給料は1ヶ月3万エスクードと安給料だが生活費も安いので大丈夫なのだろう。

                     

                    昼休みも終わり観光局を訪ねる。観光局といっても僅か3人の小所帯。その中の事務員で愛想のよいアナが、私たちが泊まるホテル・デ・サンタ・ルジアへ案内してくれることになった。観光局からホテルまでの道のりは、さほどの距離はないが丘に登る道がくねっているので、さっき食べた昼食のせいで吐き気をもよおす始末。奥村さんはコインブラでの大晩餐会から食欲不振、春子もだいぶ弱っていて「水がキシキシする」とコピーライターらしからぬ意味不明な表現をする。

                     

                    ホテル・デ・サンタ・ルジアは、ポウザーダで小高い山の上にある。静かな緑に囲まれた落ち着いたホテルだ。各部屋のバルコニーからサンタ・ルジア教会が眼下に見え、その向こうにはリマ河が滔々と流れる光景は素晴らしい。小さな町だがとても風光明媚で住み易そうだ。

                     

                    この地方はミーニョ地方と呼ばれ、ポルトガルの伝統工芸や民俗衣装でもよく知られている。ポルトガルの中でも一番ポルトガルらしい地方かもしれない。ヴィアナ・デ・カステロから車で30分ほど行くとポンテ・デ・リマがある。これまで旅をしたポルトガルの中では一番気に入った。名称通り、リマ河のほとりにあり、16世紀から17世紀に栄華を極めたところで、伯爵や公爵の子孫が今でも沢山住んでいる。

                     

                    私たちはアナに紹介されたマリア・ド・セウに会い、ミーニョ地方の伝統工芸品を見せてもらった。ファドで使われるギターラ・ポルトゲーザと呼ばれる丸いギター、多彩な刺繍が施された民族衣装など素晴らしいものばかりだ。

                     

                    マリア・ド・セウは、キャリアウーマンを絵に描いたような人で、ポルトガルのことなら何でもわかる物知り、しかもエネルギッシュ、ポルトガル人である事と仕事に誇りを持っているのが伝わってくる。彼女の話は薀蓄(うんちく)もあり、なかなか興味深い。その話のひとつに黒ずくめの婚礼衣装があった。

                     

                    この地方の婚礼衣装は真っ黒でカラス色である。黒いスカート、それに刺繍をほどこした白いパフスリーブのブラウス、布は厚手のフェルトのような生地。スカートはファスナーの変わりに紐で結ばれ、中年太りをしてからもはけるのでとても経済的。それにもう一つ驚かされたのは、婚礼衣装と死装束を兼用するというのだ。女性が亡くなると葬式の衣装として白装束のかわりに、婚礼衣装を着せるとのこと「こんな話し聞いたことない」。

                     

                    夕方、マリア・デ・セウは、コンデ・デ・アウロラ(オーロラ伯爵)の邸宅へ私たちを連れて行ってくれた。古びた邸宅で薄暗いこともあって、吸血鬼でも出没しそうな不気味な雰囲気。これこそが、本当のマンションと呼べるものである。いたるところ土壁は剥げ落ちてはいるが、腐っても鯛である。邸宅の入口にはブドウのつるが青々と茂り、なかなかの風情。

                     

                    中に入るとまるで博物館のようだ。星の位置を調べる機械、イェズス会の人が資金集めのために作った水時計、ヤジロベイのような形で両端に金魚すくいの網のようなものが付いて、ゆっくり回転するハエ追い機など、すべてが17世紀から18世紀に作られ、今も使用することが出来る貴重な品々である。

                     

                    台所も昔のままで、まきを使用するレンジ、手動式アイスクリーム作り器、炭を入れて使うアイロン、肉ひき機など、これもまた17世紀の記念物。「インドの部屋」と呼ばれるところには、マデイラ・デ・フェロ(鉄の木)で作られたレース状に彫られた椅子やテーブルのセットが置かれている。

                     

                    これらの家具調度品は、1840年にアウロラ伯爵の曽祖父がこの家を建てた時にインドのゴアで作らせ、わざわざ此処ポンテ・デ・リマまで運ばせたのだそうだ。伯爵の曽祖父はゴアの副知事だった。栄華を極めたポルトガルが偲ばれる。


                    このアウロラ伯爵は4代目で相続税は何処でも頭痛の種らしく、その対策として、最近では貴族の末裔は使用していない部屋をツーリストに貸すペンションのようなシステム「アビタソン・デ・ツリズモ」を経営している人が多く見られる。過去の栄光もプライドも、なりふりかまわず投げ捨てないと生き抜けない時代の波がここにも押し寄せて来ているようだ。

                    ポルトガルの窓から日本が見える No.20

                    2016.12.15 Thursday

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                      ポルトガルの窓から日本が見える

                       

                      文:吉田千津子 写真:奥村森

                       

                       

                       

                      Grape harvest ブドウの収穫

                       

                       

                       

                      ポルトガルの故郷・ミーニョ料理とワイン、そして親日家

                       

                      ミーニョ地方には、興味深く面白い取材対象が沢山ある。雄鶏人形で有名なバルセロスとブラガへ向かうつもりでいたが、予定を変更して1日延ばすことにする。午前中は郷土料理の取材だ。昨日泊まったホテル・サンタ・ルジアのマネージャーと交渉、ホテル内レストランの撮影許可をとる。

                       

                      今日の料理はアロス・デ・サラセーリョ、豚の血で炊いた肉入りごばんとロジョン(豚と豚レバーをソテーしたものを、もう一度オーブンで焦げ目を付けたもの)だ。この地方の郷土料理はレバーやモツをよく使う。大皿には豚の肉とレバー、黒ずんだ豚の血入りごはんの山盛り。豚のオンパレードだ。

                       

                      好き嫌いの多い奥村さんと春子、その中でも大の苦手がレバーである。2人は撮影中から「この料理、あとで私たちが食べなくてもいいよね」と春子。「高そうな料理だから、きっとお客さんに出すんだよ。でも、なんでよりによってレバー料理なのだろう、まいったなあ」と奥村さんもボソボソ応える。

                       

                      こんな会話を交しながら30分程で撮影は終了した。そこへホテルマネージャーがやって来て「せっかく作ったので、どうぞ召し上がって下さい」という。奥村さんと春子は何ともいえない表情で顔を見合わせ、心なしか頬も引きつって見える。奥村さんは「失礼なことになるから断ってくれないか」と日本的感覚で私にマネージャーに伝えろという。「単に、苦手のレバーを食べたくないだけではないか」こんな言い訳を通訳するわけにはいかない、私は彼の申し出を却下した。

                       

                      覚悟を決めた2人は、折角のご馳走だからと豚肉を食べ始めた。「あっ、レバー」口中に強烈な匂いがひろがる。奥村さんも春子も言葉もなく、ひたすらグラスの水を飲み続ける。結局、私は3人分を1人で食べるはめになった。ワインで流し込みながら頑張ってはみたが、なにせポルトガル料理の3人前、尋常な量ではない。半分食べたところでギブアップ。マネージャーに無礼を詫びて逃げるようにその場を立ち去った。奥村さんと春子は外に出ると、まるで監獄から出所したかのように晴ればれとした表情に変わった。よっぽど辛かったのだろう、ちょっと可哀想な気もする。だが、その様子は滑稽でもあった。

                       

                      ヴィアナ・デ・カステロを後にして、ポンテ・ド・リマへ向かう。到着早々、ポルトガル伝統レースの店やフィルグラーナと呼ばれる金細工の店を撮影する。その後、アブレウ・デ・リマ伯爵の邸宅へ。彼の祖先は、フランシスコ・パシェッコといって日本との国交復活を求めて来日したポルトガル最後の使節代表であった。

                       

                      パシェッコの使節61人は、鎖国令に反した罪人として1640年長崎県西坂で火あぶりの刑で無念の死を遂げたのであった。にもかかわらず、パシェッコの子孫、ジョアン・ゴメス・デ・アブレウ・デ・リマ伯爵と、その母は「パシェッコは殉死です、今の日本の繁栄は彼の死が無駄でなかったことを証明するもの、日本は私たちの誇りです」と暖かく迎えてくれた。

                            

                      ジョアンは小太りでおとなしそうな学者肌、母親は立て板に水を流すごとく話まくる対照的な親子だ。ジョアンはパシェッコの研究家でもあり、すでに3冊のパシェッコに関する本を出版している。この本には、17世紀から18世紀にかけての教会の歴史、戦争、革命、生活、そして死にいたるまでのドキュメントなどが記載されている。本職のエンジニアの仕事をするかたわら、リスボアの国立図書館やアジューダ図書館に通っては、古い資料の翻訳にあたっているそうだ。

                       

                      彼は、1757年にジョアン・クラセットが日本史について書いた2冊のオリジナル本を見せてくれた。貴重な資料を手にとって容易に触れることが出来るのもポルトガルならではのことだ。日本だったら権威ある学者でないと、ページをめくることすら許されないであろう。「歴史はみんなのもの」そんな深いポルトガルの文化意識が羨ましく思えた。

                       

                      かつて隆盛を極めた貴族の末裔も、今では高い税金に苦慮。その対策としてアビタソン・デ・ツリズモ(民宿経営)をしている人が多い。アブレウ・デ・リマ邸も例外ではない。先祖の文化遺産を維持するのも容易なことではなさそうだ。

                       

                      さて話をもとに戻すが、パシェッコは死後、ビアットという高い位を与えられ、ポンテ・デ・リマの教会に祭られるようになった。パシェッコの名は、あまり日本では知られていないが、ここでは英雄的存在なのだ。子孫が、これほどパシェッコや日本を誇りに思って親日的なのだから、日本もポルトガルとの友好を深めるために、もっときめの細かい文化交流を考えるべきである。

                       

                      伯爵に別れを告げ、この地区のブドウ収集所・アデガを見学。入口には髭を蓄えた威厳のある男の銅像がデンと飾られている。この人こそが、過日訪問したアウロラ伯爵の先祖でアデガを設立した人でもある。今年のポルトガルのブドウ収穫期は10月1日から10月15日で、この間にすべてのブドウを摘まなくてはならないので、みな大忙しだ。

                       

                      今日は10月7日、収穫まっただ中である。今年は雨が多かったので少々遅れているものの、1日に人間が5〜6人は入ることができると思われる大きな樽が600樽ほど持ち込まれるのだから凄い。樽は熟れたマスカット色のブドウや紫色のブドウの甘い香りでいっぱい。トラック、トラクター、馬車などに積まれた樽に溢れんばかりのブドウが次から次へと近隣の村から運ばれてくる。

                       

                      日本のゴールデンウィークの高速道路も顔負けである。車両の列は、道のズーッと向こうまで延々と続く。「今、午後4時だが、この行列が解消するには明朝3時までかかるよ」とアデガの工場長はいう。 このアデガでは、まず長い棒を樽につっこんで糖度とアルコール発酵度を測る、その計量の結果に応じてブドウを分類する。

                       

                      次に種別したブドウの軸、皮、種を取り除き、それを5段階に分けて圧縮する。圧縮されてできたブドウ液はモストと呼ばれ、1〜2段階で出来たブドウ液をラグリマ、3〜5段階で出来たものをモスト・プレンサと呼ぶのだそうだ。

                       

                      そのモストにイーストを加え直径2メートルもあるローラーで液体を漉す。ローラーにはフォシルという白いチョーク状の形をした型が付けられている。この機械を通して精製されたブドウ液は透明になり、樽につめられて涼しい貯蔵庫に寝かされる。これがアデガのプロセスだ。

                       

                      この地方の特産ワインは、ヴィーニョ・ヴェルデでアルコール度は12度。このワインは土壌から自然に生まれた乳酸菌を含んでいるので悪酔いをしないそうだ。帰り際に試飲をさせてもらう。たまたま見学に来ていたスウェーデン人夫婦と共に10種類以上のワインを飲んだが、試飲といっても1種類でコップ1杯分も注いでくれるので、すっかり酔っ払ってしまった。ビーニョ・ヴェルデは発泡性のある、さわやかな口あたりの素晴らしい白ワインであった。