No.1 まえがき 

2016.12.11 Sunday 20:33
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    ポルトガルの窓から日本が見える

     

    文:吉田千津子 写真:奥村森

     

     

    Tower of Belem ベレムの塔

    Tower of Belem ベレムの塔

     

     

    まえがき

     

    私は短大を卒業してからすぐに、父が仕事で駐在していたブラジルに日本最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗って神戸港からひとり人旅に出た。1968年初春のことである。「父を慕って」というほど、私は父への思いはなかったが、その頃の私は「どこでもよいから、外国に行ってみたい」という気もちからだった。

     

    旅は約50日、1ドル360円の時代であった。船代を稼ぐために大学を卒業してから1年間勤めをして資金を蓄え、父が「来るな」と反対するのを押し切っての旅だった。私が最初に住んだブラジルの町『ポルト・アレグレ』(ポルトガル語で楽しい港の意)には、日本人がほとんどいないことも幸いして、ポルトガル語を使わなくてはならず、約2年の滞在で言葉が上達したばかりか性格もブラジル人になってしまった。気さくで底抜けに明るいブラジル人気質が私をとりこにした。

     

    その後、一時帰国したが「またブラジルに帰りたい」と思うようになり、ヴァリグ・ブラジル航空のスチュワーデスに応募した。その結果、ブラジル・リオデジャネイロとアメリカ・ロスアンゼルスでの生活を約20年間することになる。

     

    1989年に帰国した私は、テレビ制作プロダクションに勤務する。日本企業の中では自由な会社だったが、束縛されて個性がなくなっていく自分が恐ろしくなっていった。「日本人なのに日本人でない自分」自信を失ない始めていた。それは今にして思うと、日本の閉鎖的社会構造が私を悩ませていたのである。

     

    ある日、心配してくれた友人が海外で暮らしたことのあるカメラマンの奥村森さんを紹介してくれた。ほどなく、私は彼のオフィスに勤めることになった。海外経験からして国際派だと思っていた奥村さんだが、意に反して折り紙つきの典型的日本人だった。

     

    彼はひとの気もちを大切にするあまり、結果的には人に騙され自ら墓穴を掘ることも度々であった。私が入社した頃、彼は父親の莫大な相続税の処理で悪戦苦闘していた。1993年には相続税も3年目を迎え、疲労困憊して旅どころではなかったが、気分転換もあってか「仕事を作って取材旅行に行こう」と言いだした。

     

    私は「ブラジルを植民地としたポルトガルとは、どんな国なのか」と以前から興味があったので喜んで参加することにした。取材に当たり、奥村さんは撮影だけで手一杯になるのでライターを探すことにする。オフィスに時々遊びに来ていたコピーライターの春子に話すと彼女も「是非一緒に行きたいと」乗り気だ。

     

    こうして、奥村さんがカメラマン、春子がライター、そして私が通訳とコーディネイターとしてポルトガル3人旅が始まった。

    No.2 東京からリスボアへ

    2016.12.12 Monday 11:32
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      ポルトガルの窓から日本が見える

       

      文:吉田千津子 写真:奥村森

       

       

      002 Scenery through the window ペンションの窓から望む風景

      Scenery through the window ペンションの窓から望む風景

       

       

      東京からリスボアへ

       

      9月20日、いよいよ念願のポルトガル取材旅行が始まろうとしている。午前8時に奥村さんと世田谷にあるオフィスを出て西新宿のリムジンバス乗り場へと向かう。心配していた交通渋滞もなく思ったより早く西新宿に到着、同行予定のライター・春子を待つ。待ち合わせするといつも遅刻常習犯の彼女だが、珍しいことに早く来ている。

       

      予約した前のバスに空席があったので時間を早めて出発する。午前10時成田着、予定時刻よりかなり早く着いたので、朝食をとって時間をつぶす。搭乗ロビー内の何でもありのレストランに3人で入り、友人のヴァリグ・ブラジル航空に勤務している未明さんを呼び出す。ついつい話に華が咲きすぎて時計を見るとボーディング時間が過ぎている。急いで出入国管理局へと向かう。

       

      出国管理局は大混雑で前になかなか進まない。ボーディングはすでに始まっている。エールフランスの地上係員に急がされ、やっと飛行機へ。私たちのために出発を遅らせてしまった。「ごめんなさい」。

       

      フライトはエールフランス275便、12時45分離陸。エールフランスのはからいでビジネスクラスの座席を提供してもらう。空いていたので2座席を一人で占領、みな満足、満足。

       

      離陸後すぐに昼食、春子はポルトガルに行くのだからとポルトワインを注文する。ところが相当甘いとみえ、閉口している。奥村さんはかっこよく赤いカンパリソーダ。昼食後3時間ほど睡眠をとる。機内温度は良好で鼻も乾かない、気分爽快。搭乗して6時間半、そろそろモスクワ上空にさしかかる。各キャビンの正面にモニターがあり、現在地、気温、飛行距離が刻々と伝えられる。乗客は皆リラックスしている。

       

      奥村さんは素早く非番の若くて可愛いスチュワーデスに目を付け、観察開始。「おばけが頭に付ける三角巾を膝に付けているよ、見てみて」と一人で面白がっている。後部座席には、とうの立った非番のスチワ−デスのお姉さまが3人分の座席を占領してサンマのように長くなり読書にふけっている。観察が終わると、奥村さんは寸暇を惜しんで眠りを貪る。

       

      春子は、何やら調べ物をしている。ウトウトしていると「あと一時間でパリ」とのアナウンス。目を覚ました奥村さんは、ことの他マメに食べ残したパンやサンドイッチ、砂糖までも酔い袋に詰め込んで飛行機から降りる準備に余念かない。

       

      現地時間17時10分前、パリ、シャルル・ドゴール空港着。空港で乗り継ぎのため1時間待たなければならないので、3人でロビー内をウロウロする。パリ在住経験のある奥村さんが、懐かしんで「シトロン・プレッセ」(レモン水)を飲もう」と勇んでバーに行ってみるが、ありきたりのジュースしかなく断念する。

       

      19時15分、エールフランス1224便はリスボアに向けて出発。ボーイング737の機内はポルトガル人と日本人の団体客でほぼ満員。後方ではポルトガル人が大声で話している。奥村さんはアイマスクを付けて再び眠り、春子はコンタクトが乾いたと言って目をしばしばさせている。食事が離陸してすぐに出る。奥村さんは「また食事か、お腹すいていないのに」と言いながらもテーブルをセットして用意をしている。あとで食べられそうなものは袋に詰めてカバンに入れる。

       

      午後10時、リスボア着、気温25度、思ったよりも暖かい。空港で20万円をエスクードに両替する。100円=158エスクード、コミッション2千エスクードと税金180エスクードを差し引いて31万4千780エスクード也。バッグがお金でパンパンだ。予約してある宿「ペンション・ナザレ」へ向かうためにタクシー乗り場へ行く。同じ便で到着した乗客で長蛇の列が出来ている。

       

      15分程待って順番が来たのでホットしたのもつかの間、タクシー運転手が「スーツケースがトランクに全部入らないから乗せられない」と言う。「入りきらないスーツケースは座席に置けば良いではないか」と私が食い下がるが、彼は「タクシーの規則でスーツケースは座席には置けない」と言い張る。

       

      私と運転手は10分程公衆の面前で乗せろ乗せないで大口論になる。日本人対ポルトガル人の対決だ。怒った運転手はスーツケースをポンポンと道路の真ん中へ投げ出して、乗車拒否して去って行った。怒りたいのは、こっちの方だ。

       

      3人の疲労も極度に達し、ヨロヨロと大きなスーツケースをひきずりながら元の列に入る。「捨てる神あれば拾う神あり」、ことの成り行きを見ていたタクシー運転手が「ノン・テン・プロブレマ」(大丈夫だよ)とトランクに入らないスーツケースを車の屋根に乗せ、その場しのぎの細い紐で縛りとめる。

       

      「ペンション・ナザレ」への道すがら運転手は猛スピードで飛ばす。荷物が屋根から落ちるのでは、と気がきではない。だが無事到着、料金が1040エスクードのところを1500エスクード支払う。荷物料金として50パーセント増しに支払ったので運転手も上機嫌である。「ボア・ヴィアージェン」(良いご旅行を)と言って立ち去った。

       

      時間は午後11時をまわっている。ペンションが用意してくれた部屋は5階、ところがエレベーターは4階まで。5階へは重たい荷物を持って螺旋階段で登るしかない。「一難去って、また一難」、私たちは最後の力をふりしぼって部屋にたどり着いた。ポルトガルに着くやいなや、ラテン気質の洗礼を受けてしまった。 

      No.3 リスボア初日

      2016.12.12 Monday 15:33
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        ポルトガルの窓から日本が見える

         

        文:吉田千津子 写真:奥村森

         

         

        Funeral car 霊柩車

        Funeral car 霊柩車

         

         

        リスボア初日

         

        朝7時に目覚ましが鳴る。肌寒いので思わずスパッツをはいてしまった。部屋は大通りに面していて少々やかましい。7時30分に教会の鐘がなる。外はまだ真っ暗、今日のスケジュールはICEP(ポルトガル投資・観光・貿易振興庁)へ行く予定。この取材旅行はICEP東京事務所のバチスタ氏の協力で実現、リスボアに着いたら現地事務所を訪ねるよう手配してくれていたからだ。ICEP事務所のあるビルは新築の赤いビル、隣のビルは取り壊し中だ。
         

        観光部門広報担当のジョアナ・ネーヴェスに会う。私達の山のような質問に応えるあいだ、彼女は次から次へとタバコを吸う。もの凄いチェーンスモーカー。 約2時間話しこみ、レンタカーを格安で借りることが出来た。30日間で21万エスクード、40日間で28万エスクード、ポルトガルのレンタカーは、アメリカのように安くはない。とりあえず40日間借りることにする。ジョアナの紹介ということで、これでもだいぶ安くなっているのだ、感謝感激。車種はルノー19。

         

        昼食は近所の『パステラリア・カタリーノ』(スナックや喫茶のような店)でとる。塩加減が良く美味しい。奥村さんと春子は子蛸と野菜煮込みを注文、私は、エスカロップ、デザートはレイチ・クレーメ(ミルクプディン)、2人は、プディン・デ・アロス(ライスプディン)を食べた。この店は官公庁街にあり、道路に長蛇の列が出来るほどの大繁盛。

         

        レンタカーを予約した帰りにビルの屋根を葺いている職人を見かける。その瞬間、奥村さんは職人が「危ないぞ」と止めるのも聞かず、もうさっさと屋根に登っている。屋根葺き職人は二枚の瓦を小さなドラム缶に入れ、一回ずつ上まで綱で引っ張り上げる原始的な方法、完了するまで約2ヶ月、親子職人、それに見習いの若い男の子が手伝い3人で葺いているらしい。
         

        私と春子は手持ち無沙汰、彼女は近くにあるカフェを偵察に行った。リスボアには排気ガス規制がないらしく、交通量の多い場所に立っていると喉がヒリヒリと痛くなる。

         

        私がかつて住んでいたリオのコパカバーナの大通りバラータ・リベイロを思い出す。リオの町のモザイクの石畳、家並など、いろいろな文化がポルトガルから海を渡ってブラジルに伝来していたのがはっきりとわかる。

         

        奥村さんが屋根から下りてきたので退屈していた私たちは「やれやれ」と、その場を移動しようと歩きだす。その時、信号が赤になり、シルバーグレーの大きなピカピカのワゴン車が停まった。後部はショーウィンドーのような大きな窓になっていて、1m以上もあるかと思われる赤、白、黄色のそれは色鮮やかな花輪が飾られている。

         

        私は奥村さんに「綺麗な車だから、写真とってよ」と頼んだ。即座に彼はカメラを取り出し「カシャ、カシャ」。私は嬉しくなってその車に手を振った。車に乗っている人達が私たち東洋人に気付き微笑みながら手を振って応えてくれた。その時、奥村さんが「あっ、霊柩車だよ」と私たちを諌めた。
         

        もしも、これが日本だったら何処の馬の骨か分からない者、おまけに変な外人が霊柩車に手を振ったりしたら不謹慎きわまりない行為だ。家族の誰かが亡くなったというのに、何と明るいのだろう。お国柄、宗教観の違いか。遺族がこれほど元気なら死者も安心して天国に行くことができるだろう。

         

        昼食後、フェイラ・デ・ラドラ(泥棒市)へ行く。くねくねと曲がった細い道を登って行くと、そこには地面いっぱいに布をひろげ、その上にところ狭しとガラクタ、本当のガラクタで日本のごみより酷いものも有るが、みな大事そうにキチンと並べて売っている。

         

        その辺を散策していると大声で会話をしている人達の声が聞こえる。ふと見ると一軒の店の中で4,5人のポルトガル人がゆうゆうと昼間なのにお喋りに興じている。奥村さんが取材をしたいと言い出し、了解を取りつける。店の中は馬具、戦争に使われた潰れたヘルメットや銅製品などが天井・壁いっぱいにぶら下がっている。店内は薄暗いが、とても清潔。誰が主人だかわからないが、皆ニコニコと愛想がよく、話し好きで歌好きのファジスタ(ファドを歌う人)だと言う。

         

        土曜日の5時にこの店でファドを聞かせるから来いとの事、近所の人を集め土曜日ファド会を開いているらしい。金曜日と土曜日はファドレストランで歌うらしく、きっと上手いのだと思う。また会う事を約束して別れた。

         

        もう日も暮れ、ケーブルカーに乗って帰ろうと思ったが、時刻表も持ち合わせておらず何時来るやも知れず、市電をおとなしく待って帰ることにした。だが、30分経っても市電は来ない。せっかちな私たち日本人は、狭い道を通り抜けるおびただしい車の排気ガスで段々喉が痛くもなりイライラして来た。

         

        その上、7歳位の女の子が春子にずうっと話かけている。その度に春子が「なんて言ったの」と私に通訳を求めてくるので、たまったものではない。女の子はお構いなしにしゃべり続ける。ああ、疲れた。結局、市電を待ちきれずタクシーで帰る。

         

        夜は節約すべく、近くのスーパーで買い物、ポルトガルに来て初日なので奮発してワインも買った。1390エスクードもしたので美味しいと思ったがペッペッと吐き出したい程まずい。貧乏性の奥村さんが仕方なく飲みほしたが酷いワインだった。

         

        ちなみにポルトガルのビールは120エスクード、ジュース(日本の一番小さいサイズ)が150エスクードでビールの方が安い。ビール好きな人にとっては有難い価格だ。

         

        夜は奥村さんの部屋で3人で食事。春子はもう日本を懐かしがって大切なインスタント味噌汁をすすっていた。奥村さんは日本から持ってきたモロコシスナックを何時ものように食べている。春子が「奥村さんはお菓子好きなんですね」と感心したように話かけるが、奥村さんは重い荷物(カメラ機材)の為にぐったりとなり、反応が鈍い。48歳の老体にはこたえるらしい。なにしろ、30キロほどもある機材を1人で一日中かついでいるのだから。もうじきレンタカーを借りるので楽になると思うが。

         

        3人とも運転は出来るが、あいにく車はマニュアルでオートマチックではない。オートマチックに慣れ親しんでいる春子と私には運転する自信もなく、奥村さんだけに42日間頼ることになりそうだ。日頃、彼は疲れると直ぐ目が充血したり痛くなったりする人なので、少々心配。

        No.4 リスボアの取材先で

        2016.12.12 Monday 19:38
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          ポルトガルの窓から日本が見える

           

          文:吉田千津子 写真:奥村森

           

           

          Market 市場

          Market 市場

           

           

          リスボアの取材先で

           

          あっという間にリスボアにきて2日が過ぎた。昨日は一日中事務的な仕事しか出来なかったので、今日はいろいろと取材をしなくては、スムーズに事が運ばず焦りを感じる。

          奥村さんは、昨日訪ねた「パステラリア・カタリーノ」で繁盛具合をカメラにおさめに出掛け、かれこれ3時間を経過、粘っこく取材をしている。カタリーノの主人・デビッドさんは、45歳というが10歳以上も老けて見える。彼は無愛想な男であったが、取材のお礼にTシャツを2枚あげると、満面に笑みをうかべた。

           

          「今日の昼食は軽く」と思ったが、結局、「パステラリア・カタリーノ」でしっかりと食べることになってしまった。撮影のためにバカリャウ(たら)と肉料理、それにコールドプレート、スープなど。またも散財。

           

          奥村さんが頑張っている間、私と春子は散策をしながら歩いているとインテリアの店に出くわした。店員は暇そうに店の中をノンビリと見回している。別件取材で日本からポルトガルへ渡ったといわれる椿の花をさがしていたので、その店員に聞いてみることにした。彼女の名前はワンダ、上品な中年女性である。

           

          彼女が言うには、ポルトガル北部のカステロ・ブランコに群生していて、ジャポネイラと呼ばれている事を教えてくれた。そして「リスボア市場も、ここから直ぐのところにあって面白いから行ってみるといいわ」と勧めてくれた。

           

          奥村さんの撮影も終わったので、私たちはワンダが教えてくれた市場に行くことにした。インテリアの店を出て、すぐ前にある大通りをつき当たると、白い大きな壁が見えた。そこがリスボア市民の胃袋を満たす市場である。3メートルの高さはゆうにあると思われる壁が延々と続く、まるで監獄のようだ。

           

          でも、中に入ると市場は活気に溢れ肉、野菜、花、チーズ、雑貨など、一番賑っているのが何といっても鮮魚売り場である。なぜか売り子はおばちゃんばかり、愛想よく私たちにアジやイカを見せつけて売りつけようとする。同じ建物の右側には小さなレストランがある。多分、おばちゃん達で昼は賑わうのだろう。

           

          私はトイレに行きたくなり捜し出す、あまり綺麗ではないが仕方がない。バタンとドアが勢いよくしまった。用を足してアッと気が付くと、なんとドアの内側に取っ手がないではないか、確かに入る時にはあったのに。そうなのだ、外側にはあるが内側には初めからなかったのだ。一度扉をしめてしまうと、もう中からは開けられない仕掛け。

           

          これこそ本当の雪隠づめ。そこで力まかせにドアを押してみるが、まったく反応なし。今度は「ドンドン、ソッコーロ(助けて)」とドアを叩いてみた。しかし、誰も応答してくれない。5分程経って、やっと魚屋のおばちゃんに救出される。ヤレヤレ、本当にお粗末の極み。

           

          昼からは、コンフェタリア(お菓子屋)の取材。取材候補として「スイッサ」と「ナショナル」という老舗の菓子店を現地で手に入れたガイドブックからピックアップ。「ナショナル」の方がこじんまりとしていて、日本人好みなので決定。

           

          「ナショナル」の主人は、4代目で元貴族ではないかと思われるほど品の良い紳士、いつもニコニコとして愛想がすこぶる良い。彼の名前はルイ・ヴィアナ。そして面白いことに彼から手渡された名刺には獣医と書かれていた。不思議に思って尋ねると「獣医になるつもりで学校へ行ったが家業を継ぐことになってしまった」と説明してくれた。どうりで店員たちが、彼のことをドトール(ドクター)と呼ぶわけだ。撮影もトントン拍子で、奥村さんも春子も大喜びであった。おまけに帰りに1人に1箱ずつ、1代目がフランスから持ち帰ったという三ヶ月型のフルーツケーキパンをいただき、何とお礼をいって良いものやら。ルイさん、ありがとう。

           

          この後、リスボア市内のバス、市電、ケーブルカー、メトロ乗り放題のパス「パッセ・トゥリスチコ」を買う。1人4日間で1350エスクード、せいぜい使わないともとが取れない。というわけで、早速37番カステロ行のバスに飛び乗り、サン・ジョルジュ城へと出発。

           

          モザイクのガタガタ道をでっかいバスが道一杯に走って行く。サン・ジョルジュ城に着くと、春子が城の上のギザギザになっている城壁まで登りたいと言いだす。今日のハードスケジュールで疲労困憊している上に、みるからに観光的過ぎる風景に奥村さんも私も気が進まなかったが春子のたっての願いもあって、やむをえず付き合うことにした。

           

          急な階段を何段も登ってたどり着いてみると、そこには何も無かった。春子は盛んに「ダマサレタ、ダマサレタ、松本城と同じだ」と訳のわからない事をブツブツと言う。この城は少々変わった城で、誰が飼っているのか、庭には孔雀がウロチョロ、真っ暗な石の部屋には、ニワトリやカラスが不気味に私たちを見つめる。

           

          9月末のポルトガルは、午後8時になっても陽が沈まず明るいので、気が付くともう11時になっている。そのかわり朝は7時になっても夜が明けない。

           

          今日9月23日、『パッセ・トゥリスチコ』の有効利用のため、エレトリコ(市電)に乗って終点まで行って見る事にした。28番のエレトリコはバイロ・アルトまで行く。それぞれのエレトリコの車両にはユニークなデザインが描かれている。私たちの乗った車両には、赤いベースにダリのようなどじょう髭を生やした男の絵が描かれていた。私は勝手に「ダリ電車」と呼ぶことにした。

           

          奥村さんと春子、そして私は、らくちんな「ダリ電車」でどんどん終点へと向かった。外はもう昼間とはうって変わって寒くなり、春子は「寒い、寒い」を連発する。仕方がないので、「ダリ電車」の始発駅のロッシオ駅まで戻り、昼に目を付けておいた中華料理店に飛び込む。

           

          私は、マッシュルームスープ(200エスクード)、奥村さんと春子は、卵スープ(220)エスクードをたのみ、牛肉のピリピリ、焼き飯、焼きソバなどを皆でオーダー。春子はそれでも足りないらしく、春巻きを注文しそうになり、私たちに「予算オーバー!!」と制されて取りやめた。春子は小柄で華奢なわりには食欲は旺盛である。

           

          No.5 苦あれば楽あり、楽あれば落とし穴あり

          2016.12.12 Monday 22:08
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            ポルトガルの窓から日本が見える

             

            文:吉田千津子 写真:奥村森

             

             

            Factory of Confeitaria Nacional コンフェタリア・ナショナルの工場

            Factory of Confeitaria Nacional コンフェタリア・ナショナルの工場

             

             

            苦あれば楽あり、楽あれば落とし穴あり

             

            今朝は7時30分に食堂集合なので早く起きた。というより寝つけなかったと言ったほうが正しい。私たちが泊まっている「ペンション・ナザレ」は、アヴェニーダ・アウグスト・アントニオ・アギィアールという、とてつもなく長い名前の大通りに面している。初日は飛行機など乗りもの疲れもあって熟睡したためか、さほど気にもならなかったが、昨晩は絶え間なく車の発信音が響き喧しく、おまけに地震のように揺れるのでたまったものではない。
             

            今日は、昨日訪ねた「コンフェタリアナショナル」の工場写真を撮りに出かける。ペンションのすぐ近くにあるメトロ・パルケ駅へと向かう。奥村さんはゴロゴロカートの上に荷物と三脚を重ねて置き、それをおんぶして歩く。私が面白がって「あっ、カニ族だ」と彼をからかっても、春子は世代が違いカニ族を知らないとみえてのってこない。
             

            メトロの下りエスカレーターは、あいにく故障中のため使用不可。東京駅総武線連絡通路のような、長く急な階段を延々と下ってやっとホームに着く。メトロ車内は薄暗く「これがニューヨークだったら怖いだろうな」と思う。電車は朝のラッシュで満員。奥村さんの背中の大荷物に、さすがに人のよいポルトガル人もイヤな顔をしている。10分程でロッシオ駅、広場の靴磨きのおじさんに「ナショナルというお菓子屋さんの工場があるルア・ド・ドゥケ通りはどこ」と尋ねる。

             

            ハンティングをかぶったおじさんは、山の方を指さして「あの階段を登った所だ」と応える。その方向を見ると、断崖絶壁に家々がへばりつくように建ち並んでいる。ロッシオ駅と工場を結ぶ道は、やっとひと一人が通れるか通れないくらいの幅の狭い階段がジグザグと絶壁の頂上に向かって伸びている。この急勾配、しんどさは登山なみだ。奥村さんは30キロ以上の荷物を背負い、ヨタヨタと登って行く。
             

            下って来る人も多く、道を譲り合いながら進むのでなかなか頂上まで登ることができない。登りきって平らな道に出ても、ポルトガルはブラジルの道と同じ石畳になっているので、奥村さんのゴロゴロカートも余り役にたたない。
             

            やっとの思いで、「ナショナル」の工場に着いた。黄色の石塀の間にある大きな木の扉を開けると、「ギィー」と乾いた音が響き渡る。なかに入ると、白衣に白頭巾姿の10数人の職人たちが忙しそうに働いていた。大きなボールの中には卵の白味が山と盛られ、自動泡立て機がものすごい勢いでグルグルと回転し、メレンゲを作っている。
             

            そこへ白髪の小柄なおばさんが、ニコニコしながらやって来た。彼女は「私が工場長のセレストレです」と自己紹介をした。彼女は現在77歳だそうだが、なんと、54年もここで働いていると言うのには、おったまげた。ここで働き始めたのは23歳の時からだそうだ。とても話し好きでよく喋る。こちらも負けじと質問を投げかける。入れ歯のせいか、なまりのせいか、時々彼女の言っている事がわからない。

             

            春子は、わずかに勉強したことのあるスペイン語で会話をしたくてたまらない。セレストレがスペイン語を解ると聞いて、突如スペイン語でのインタビュー開始。だが、初級程度の彼女の語学力では、まったく通じずパニック状態。自分で話すのを諦めた彼女は、私に取材に関係のないことまで知ろうと頼ってくる。私もイラだってきた。

             

            奥村さんのカメラ助手と通訳を一緒にこなすのは並み大抵のことではない。「質問は、撮影の前か後にまとめてくれ」と言いたかったが「旅はまだまだ続くのだ、角がたつといけない」とぐっと我慢した。
             

            春子は日本人が興味をもつ、誰でも知っているコンペイトウ、カステラの原形のポンデロー、そして鶏卵素麺の原形フィオ・デ・オーヴォなど、ありきたりのものにこだわっている。セレストレの好意でポンデローの作り方を見せてもらう。

             

            小太りの男が大きなボールに手を突っ込みケーキの材料を混ぜる。まず、黄味、砂糖、小麦粉を混ぜ、ドーナツ形の型に紙より少しうすい藁半紙(わらばんし)をひき、材料を流しこむ。それをオーブンに入れると出来上がり。
             

            小さなクッキー、ドッセ・デ・オーヴォ、瓢箪形のパンにジャムを塗ったクッキー、パステス、エンパナーダ、フルーツケーキ、結婚記念日用のケーキなど20種類以上のケーキが次々と出来上がり、台の上に並べられていく。そのスピードたるや日本人顔負けの機敏さで、黙々と話もせず働く職人の勤勉さには驚かされる。

             

            完成品はうやうやしく昔の大名が参勤交代に使ったような木箱におさめられる。箱の中は三段になっていて、そこにケーキやクッキーを壊れないように納める。
             

            工場の取材を終えるとセレストレは、工場の奥にあるオーナーの家を案内すると言い始めた。2代目から4代目までが、ずっとこの家に住んでいる。立派な家だ。ポルトガルではエリート中のエリートに違いない。現オーナーのドクター・ルイ・ヴィアナはとても品の良い男である。ドナ・セレストレはドクターの赤ん坊のころから面倒をみているので、彼をまるで自分の子供のように思って嬉しそうに彼のことを話す。家の中はドン・ペドロ5世様式のベッドや家具でうめつくされていて、まるで博物館のように整頓されている。
             

            ドナ・セレストレに別れを告げ元来た道を下って行くと、「ギッコン・バッタン」という音がする、間口1メートル30センチほどの小さな印刷屋さん。店の奥には、手刷りの印刷機、おばさんが忙しく手を動かしている。のんびりと、店を見学してからペンションに戻り、一休みしてICEPのネーヴェス嬢に会いに行く。彼女は私たちに素晴らしいニュースを知らせてくれた。
             

            なんと、これからの取材旅行の宿泊費をICEPやホテルの協力で無料にしてくれるという有難い話だった。思いがけない幸運な知らせに喜び勇んだ私たちは「今日の夕食は、ちょっと奮発してまともな物を食べよう」ということになった。近くのレストランでテーブルにつくと、ウェーターがすかさず生ハムとメロン、それに真っ赤にゆで上がった美味しそうなエビを注文もしていないのに運んでくる。
             

            フランス在住経験のある奥村さんが「もし、手をつけたらチャージされるぞ」と女2人を脅かした。食い意地のはった女2人の胃袋は、そんな言葉を聞き入れなかった。次にワイン、メインディッシュを注文した。ポルトガル代表料理のバカリャウ(たら料理)である。たらは、塩抜きが不十分でしょっぱくて食べられない、日本のレストランと違い量もベラボウに多い。
             

            やっと食べ終わり、勘定を払う段になって驚いた。何と、請求書が3人で8900エスクード。ボラレているのではと、請求書をよく見るとメインディッシュは1人前1200エスクードだが、注文せずに出てきた生ハムが980エスクード、ゆでエビにいたっては1800エスクードとなっている。3人ともギョッとなったが、食べたのだから支払わなければならないのは当然だ。キャッチバーで捕まった馬鹿な客の心境である。
             

            春子にいたっては、まだ旅の始まりだというのにアンゴラのフワフワのセーターを1万2千エスクードで買ってしまったので、今日の散財は割り勘の夕食代と合わせ1万5千エスクードにもなり、顔がひきつっている。
             

            外国人がレストランに行くと、この手で大枚を払わされることが多い。「クワバラ、クワバラ」。この事件をきっかけにして、オーダーしない料理がテーブルに出てくると喧嘩してでも返却することにあい努めた。

            No.6 リスボアの生活をりをり

            2016.12.13 Tuesday 06:26
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              ポルトガルの窓から日本が見える

               

              文:吉田千津子 写真:奥村森

               

               

              Manager of  Gambrinus ガンブリヌス支配人のダリオ氏

              Manager of  Gambrinus ガンブリヌス支配人のダリオ氏

               

               

              リスボアの生活をりをり

               

              午前6時起床、昨日の日記を書く。朝食後、奥村さんに渡すものがあったので部屋へ届ける。ドアをノックしてもなかなか出てこない。しばらくしてドアが開いたとたん、オペラのような歌声が部屋一杯に響き渡る。テレビもついていない、誰が歌っているのだろうか。

               

              奥村さんは、ペンションの中庭を覗き込んでいる。私も見ると、背広姿の片腕の男とアコーディオンを胸にぶらさげた若い男が立っていた。声の主は、彼らだったのだ。8階建てアパートの四角い中庭にビンビンとこだまする。歌詞は反響して聞きとれないが、どうやらファドらしい。日本で言えば演歌の流しといったところか。日本の流しは夜の酒場を想像させるが、ところ変われば品かわる、朝の10時にこんな場所で演じるとは。

               

              中庭の窓を見渡すと、お手伝いさん、事務員、おばあちゃんが顔を窓から突き出し聞き入っている。奥村さんは「お金をもらうためにやっているんだ」というが、誰もお金をあげている者はいない。なおも歌を聞き続けていると、5階の窓から事務員らしい女の人が手をあげて白い紙の包みを広場の彼らに向かって投げた。

               

              それは風に乗ってフワフワと広場のモザイクの石畳の上に落ちた。歌手はゆっくりと包みを拾い上げ、不自由な片手で硬貨を丁寧に取り出し、首にかけた箱に入れる。すると、その様子を見ていた人々が、次々と同じように広場に向けて投げ始める。私は硬貨がよく見えるようにナイロンの透き通った袋に100エスクード硬貨と500エスクード紙幣を入れて力いっぱい投げた。私の心づけはヒラリヒラリと舞い、やがて駐車していた車のフェンダーに「カーン」という音をたててぶつかり、男の前に落ちた。彼はすぐに拾いあげ、片手を左右に振って私に感謝の意を表した。

               

              今夜は、ICEPのネーヴェス嬢の協力で5つ星のシーフード・レストラン「ガンブリヌス」を撮影することになった。メトロ・レスタウラドウレス駅で降りてすぐの所に、このレストランはある。

               

              「ガンブリヌス」は、一見なんの変哲もないレストランにみえる。木の扉を開けて中に入ると、どこにでもあるバーカウンターが右側に、左側には何種類もの海老や魚介類がみごとにデザインされてオンパレード、ウィンドーからも眺めることができるので通行人の目をも楽しませている。

               

              レストラン内部は、3つの部屋からなり、各部屋に1メートルの段差をつけて雰囲気が変わるような、さり気ないがよく考えられた設計がなされている。厨房は思いのほか狭いが、壁にはポルトガル特有のアズレージョ(デザインされたタイル壁)で飾られ「いかにもポルトガル」という感じだ。

               

              午後6時30分だというのにシェフは勿論、他の料理人も姿を見せない。開店に間に合うのだろうかと心配になる。雑用専門のアシスタントだけが従業員のための食事の準備に取りかかっているだけだ。疑問に思い尋ねてみると、この店は海産物などの新鮮な材料を生かした料理がメインなので、焼いたり煮たりと調理が簡単な上に、開店まもない時間は客も食前にカウンターでアペレチーボ(食前酒)を歓談しながら長い時間楽しむので、本格的な食事はなんと9時過ぎだという。

               

              厨房から階段を登るとワインセラーになっている。そこにはポルトガルワインを代表するヴィーニョ・ヴェルデ、ダァン、マデイラ、ポルトなどがずらりと並ぶ。その種類のあまりの多さに、支配人のダリオ氏も何本あるのかわからないとのこと。

               

              ダリオ氏はキザと思えるほどの徹底した着こなしでダンディー、29年間この仕事をしていると自慢する。ダリオ氏の案内によると、この店の1日、1人当たりの消費額は約8000エスクードから10000エスクードと言うから、ポルトガルの生活水準から考えるとかなりのものだ。案の定、上流階級の人々が夜な夜な出没する凄ーいレストランだったのだ。マリオ・ソアレス・ポルトガル大統領も、そのなかの一人。顧客の多くは、家族代々訪れる常連客。

               

              この店で食事ができるようになれば、「上流階級の仲間入り」と出世を志向するポルトガル人にとっては、ステイタスのバロメーターとなっているようだ。ポルトガルの高級レストランでは、通常、ポルテイロと呼ばれる門番が仰々しく入口に立っている。だが、「ガンブリヌス」は、気軽な雰囲気の5つ星レストランを経営理念に掲げているので、私のような俗人でも違和感なく気軽に立ち寄ることが出来る。いつの日か私もお金持ちになって、このレストランで食事をしてみたいものだ。

               

              営業時間は午後12時から午前2時まで、年中無休。午後9時30分がラストオーダーとなる日本のレストランは「豊な時間と食事とは何か」を考え、顧客サービスにもっと努めて欲しい。ポルトガルの一般庶民も上流社会もそれなりに、生活のをりをりを満喫して大切に過ごしているのが素晴らしい。

              No.7 旅は道づれ世は情け、されど君子危うきに近よらず

              2016.12.13 Tuesday 07:25
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                ポルトガルの窓から日本が見える

                 

                文:吉田千津子 写真:奥村森

                 

                 

                Hitoshi & Mutsuko Takemoto 武本夫妻

                Hitoshi & Mutsuko Takemoto 武本夫妻

                 

                 

                旅は道づれ世は情け、されど君子危うきに近よらず

                 

                先日、アルファマの「泥棒市」を訪れた際、通りがかった店で「土曜日の夜、ここでファドを聞かせるから5時においで」と言われたのを思い出す、そう、今日は土曜日。春子は、朝から興奮気味でファドの話題に終始。

                 

                一方、私は生来の心配性に加え、ブラジルやアメリカでの23年間に渡る海外生活の教訓から「あの地区は夜になると街灯もなく真っ暗で人気もないので危険ではないか。昼間は、にこやかなあの人達が夜になると一転、怖い人に変身するのでは」とあれこれ考え臆病になり気が進まない。

                 

                そんな私の性格のお蔭で、これまで無事に過ごせてこられたと自負している。最近は、無防備に渡航して事件に巻き込まれる日本人が急増している。奥村さんも海外生活経験者だけあって「行くのは止めよう」と言ったが、春子は「大丈夫ですよ、あのひと達はいい人ですよ」と信じきって疑わない。春子は、まだ未練があるらしくブツブツと文句をいったが万が一を考え、私たちの意見を押し通して取りやめることになった。「君子危うきに近寄らず」だ。

                 

                今日、土曜日はセトゥーバル在住の日本人画家・武本比登志さんを取材に訪れることになった。セトゥーバルは、リスボアから南東へ約50キロ離れた港町である。昨日借りたばかりのルノー19に3人で意気揚々と乗り込んだのだが、近ごろオートマティック車しか運転していない奥村さん、ギッコン、バッタン、ガックンとギアチェンジの度にムチウチ症になりそうだ。

                 

                私たちが泊まっているペンションから目と鼻の先にあるプラッサ・エスパニョーラまで悪戦苦闘の末たどりつく。エスパニョーラ広場は、ロータリーになっていて放射線状に道が分かれている。しかし、私たちが目指すセトゥーバルはおろか、方向を示す標識すら見当たらない。慌てた3人、「あっちだ、こっちだ」とそれぞれが言っているうちに、後方には車の列、「ビービー」とけたたましくクラクションを鳴らす音。

                 

                奥村さんはアタフタするし、私はイライラ、あっという間にロータリーを2周してしまう。何人かに道を尋ね、やっとのことでセトゥーバルの方向を確認。リスボアの道路は、石畳で狭いぐにゃぐにゃ道や一方通行が多い。その上、やたらと不法駐車が目立つ。ダブル、トリプル駐車は朝飯前。

                 

                ポルトガル人の運転は、さすがラテン系、ブラジル人と同様、車に乗り込むと人格が変わりFIレーサーよろしく滅多やたらにスピードを出す。普段のオットリとして温厚なポルトガル人からは想像できない。その人格の変貌は、子供の頃ウォルト・ディズニーのアニメで見たグーフィーを思い出す。

                 

                話が脱線してしまったが、その後のドライブは順調で、1時間程で海の見える小高い丘にある武本さんのアパートに無事到着した。通りがかりに買い物袋をさげたおばあちゃんに「このアパートのどの棟に日本人が住んでいるか知りませんか」と尋ねると、「13番の3階だよ」と教えてくれた。武本さんは、このあたりで良く知られているようだ。

                 

                武本夫婦は、笑顔で私たちを迎えてくれた。彼らの住むアパートは余り大きくはないが、新しく清潔で気持ちのよい住みやすそうなアパートである。ベランダや台所から海が見渡せるのも素晴らしい。

                 

                「向かいに見えるのがトロイア半島だよ」と武本さんは指さす。夏は海水浴場となるリゾート地だ。武本夫婦は、ニューヨーク、中南米と旅して回ったすえ、ポルトガルに住むまではスウェーデンにも在住していた。画家といえばパリと誰でも考えるのだが、武本さんは、そんな俗っぽい人ではない。「少年のころ楽しく描いた絵をもう一度描きたい、ポルトガルには古きよき日本が今も残っている、それが私のモチーフ」と制作を続ける純粋な画家だ。

                 

                夫人でエッセイストの睦子さんが、私たち3人に自家製のカレーライス、そして武本さんお気に入りのポルトガルワインをご馳走してくれた。ポルトガルに来てから毎日、塩辛い料理を食べていた私たちにとって、久しぶりのご飯は感激、ポルトガルワイン談議に花が咲いた。 

                No.8 旅の始まり オビドス⇒サンタ・クルーズ⇒ペニッシュ

                2016.12.13 Tuesday 12:09
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                  ポルトガルの窓から日本が見える

                   

                  文:吉田千津子 写真:奥村森

                   

                   

                  Souvenir shop みやげもの店

                  Souvenir shop みやげもの店

                   

                   

                  旅の始まり オビドス⇒サンタ・クルーズ⇒ペニッシュ

                   

                  今日は、いよいよ中世の町オビドスへの取材旅行の始まりだ。午前8時、朝食をとろうとペンションの4階にある食堂に行く。だが、食堂は真っ暗でフロントに人影はない。いつもと様子が違う、うろうろしているとペンションの従業員の中で一番グウタラな私の嫌いな若い男が大あくびをしながら出て来て「食事は7時30分からです、あと30分待ってください」と言ってボーっと椅子に座り込む。

                   

                  私は憤慨して「何いっているの、もう8時じゃないの」と彼をにらみつけた。すると「今朝の3時から冬時間なので、1時間早くなって今7時です」とシャーシャーと応える。「えっ何だと、それだったら前もって言え、1時間損しちゃったじゃないの」客を客とも思わぬ態度、まったく嫌な奴だ。

                   

                  仕方がないので真っ暗な食堂に3人で座り、旅のスケジュールを打ち合わせることにした。すると突然春子が「昨日洗濯して窓の外に干しておいた靴下が落ちちゃったの、どうしよう」と言い始め、打ち合わせどころではない。「早く下に取りに行けば」と私。

                   

                  「なんでそんな簡単なことがわからないの」と言いたかったけれど我慢する。春子は、暫らくして諦め顔で戻ってきた。「駄目だった、落ちた場所の周りに鉄格子が有って入れないの」靴下一足ぐらいと私は思うのだが、春子にとっては結構こたえている様子だ。そうしている内に8時、パンとミルク紅茶、お決まりの朝食。食事を終えていよいよ出発、「ペンション・ナザレ」ともしばしのお別れ。

                   

                  先日、セトゥーバル行きで悩まされた魔のプラッサ・エスパニョーラのロータリーも無事通過、と思いきや、地図にない町を次々と車は通り過ぎる。どうやらリスボアから郊外にぬける国道を途中から間違え、脇道にそれてしまったらしい。

                   

                  オビドスへの道は遅々として進まず、私は「ドライバーは運転する前に地図をよく見るべきよ」、奥村さんは「ナビゲーターの怠慢だ」と互いを非難、険悪なムードになる。その応酬の凄まじさに春子は、後部座席で小さくなってガイドブックを読むふりをしている。

                   

                  それでも途中から軌道修正をしながらオビドスに到着。遠くの小高い丘の上にオビドス城壁が見えてホッとする。オビドスの町は中世の城下町で城壁の内側に町がスッポリ入っている。クネクネと曲がった城内の道、まっ白な壁にブーゲンビリアの赤紫の花、とても可愛いいメルヘンチックな世界。春子は感激、トウのたった私には乙女チック過ぎて似合わず、奥村さんは無関心。オビドスは観光地なので外人客が多い。

                   

                  町の中心にあるポウザーダ(古い修道院や王宮をホテルに改装した建物)カステロは、とりわけ外国人で込み合っている。オビドス城外にある大きな石造りの教会、イグレージャ・セニョーラ・ペドラ。ここには観光客の姿もなく、厳粛なムードが漂う。

                   

                  奥村さんは俄然ハッスルしてシャッター音を響かせる、春子はつまらなそう。通りに目を向けると、突然、色とりどり100台余りの自転車の列、ロードレースをしているのだろうか、猛スピードで走り去って行く。

                   

                  原っぱでは、一匹のノラ犬がトボトボと歩く、ポルトガルの犬はなぜか覇気がない。中世の町オビドスを後にして、サンタ・クルーズに向かう。この町は、作家・壇一雄さんが執筆活動と療養をかねて滞在した町として日本人に広く知られている。町に着くとポルトガル人が私たちに「日本人の碑なら海岸沿いに有るよ」と尋ねもしないのに教えてくれる。

                   

                  日本で出版されたガイドブックには、ひなびた漁師町と紹介されているが、今はまるで江ノ島のようにホテルが雨後のたけのこのように乱立、リゾート化も甚だしい。彼の住んでいた白い家だけが、ひっそりと残されて昔のたたずまいを偲ばせていた。きっと壇一雄さんも、草葉の陰で苦笑していることだろう。期待はずれに私はガッカリした。

                   

                  夕暮れが迫るころ、ペニッシュの海岸線に出た。夕日に染まる大西洋の荒波、岩をも削らんばかりの強風、風化してサンドイッチを積み上げたようになった岸壁、強烈で神秘的な光景だ。ビュンビュン吹きつける風にさらされ、草むらの中に毛の細い白い犬がうずくまって寒さを忍んでいる。

                   

                  白毛は薄汚れボロボロで、おどおどした犬の様子から人間に苛められたに違いなく、クラッカーをやろうとしても警戒して、ヨロヨロと道の中央に逃げてしまい、やがて疲れてションボリと座り込む。犬が車にはねられてはと、クラッカーを岩陰に置くと安心したのか美味しそうに食べる。

                   

                  一方、奥村さんは強風の中、必死になって撮影を続ける。彼は、私が犬と遊んでいると思い「僕が仕事をして崖から落ちるかもしれないというのに」とブツブツ言うが、私たちは犬の命の方が気になる。その場を去る時、コンフェタリア「ナショナル」で貰った高級菓子のフルーツケーキをその犬にやって別れた。

                   

                  私たちは、今日の宿泊をペニッシュと決め、ペンションを探すことにした。街中の1軒目のペンションは高すぎて敬遠、2軒目で交渉成立。しかし、このペンションはリスボアのペンションに比べると安いが汚い。3人で一晩5500エスクード。勿論、トイレは共同で水が流れっぱなしなので、使用するたびに元栓を閉めなければならない。

                   

                  便器の下は漏れてきた水でビショビショ、おまけにトイレの真下が厨房なので用を足たすたびにフライドポテトの匂いが充満して油酔い、オエッとなるからたまったものではない。3階建のペンションの2階が私たちの宿泊する部屋、1階はバール(居酒屋とスナックが一緒になった店)で日曜日ともなると漁師で賑わい、飲めや歌へやの大宴会が始まる。

                   

                  奥村さんは、すぐにそのグループと合流、明日漁船に乗り撮影させてもらうことになった。そこまでは見事な交渉力を感心しのだが、その後が悪かった。親しくなった漁師の一人が、大切な商売道具のフラッシュをいじくりまわしてブッ壊してしまったのである。

                   

                  奥村さんは飲みすぎた酒で真っ赤な顔をして、「あー、ヤバイナー」と言って修理にあいつとめるが簡単には直りそうもない。それでもフラッシュの高電圧に感電しそうになりながらも、夜半までかかって何とか応急処置で使用できるようになった。明日、奥村さんは寝不足でキツイ一日になるだろう。

                  No.9 漁村と温泉町での顛末

                  2016.12.13 Tuesday 13:29
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                    ポルトガルの窓から日本が見える

                     

                    文:吉田千津子 写真:奥村森

                     

                     

                    Hot spring hospital Aspirator treatment 温泉病院 吸引治療

                    Hot spring hospital Aspirator treatment 温泉病院 吸引治療

                     

                     

                    漁村と温泉町での顛末

                     

                    昨夜、私たちが泊まったペンション1階のカフェで出会ったポルトガル漁師から漁船に乗せてもらう約束をしたのだが、あいにくシケとなり予定を変更、今夜9時にカフェで待ち合わせて漁港見学に連れて行ってもらうことになった。魚の水揚げの様子を撮影できるかも知れない。

                     

                    このペンションの名は「クリスタル」、とても綺麗な名称だがトイレは水びだし、部屋は日本のビジネスホテルよりもまだ狭く、椅子もおいてないので足の踏み場もなく荷物をベットの上に乗せる始末、あ〜あ。

                     

                    そのためか春子は部屋に居つかず、カフェで作家よろしくなにやら書き物をしている。奥村さんは壊されてしまったフラッシュを「完全修理できそうだ」と喜んでいる。

                     

                    今日は、夜の約束の時間までペニッシュからカルダス・ダ・ライーニャへと向かう。カルダス・ダ・ライ―ニャにはプラッサ・デ・リカブリカという大きな広場があり、早朝から青空市場が開かれている。 農家のおばちゃんやおじちゃんが、近くの村々から自前の農作物をもってやってくる。赤や緑のでっかいピーマン、日本では見たこともないピンク色をした長が〜い豆など。市場は、野菜、果物、チーズ、ソーセージ、パンでいっぱい。

                     

                    ここでもおばちゃんは元気印、何処に行ってもポルトガルでは女の人が男勝りの働きを見せる。リスボアの市場では魚河岸で75年も働いているおばちゃんに出会ったが、ここでもそういう人が沢山、ポルトガル女性の日常の姿なのだろう。

                     

                    今夜は夕食をとる暇がないと思い、直径30センチもあるパンを120エスクード、チーズ4分の1を270エスクードで買う。買い物を終えて駐車場に戻る途中、筒形をした緑色のトンガリ屋根でヨーロッパの街角でよく見かける広告塔のようなものに出くわす。

                     

                    よ〜く見ると、ドアにはオクパード(使用中)とリーブレ(空き)の文字を発見。なんと公衆便所なのだ。ポルトガルに来て初めて見る公衆便所、私たち3人は異常な好奇心。そこで奥村さんがトイレ内部の写真を撮ろうとドアを開けようとするが開かない。このトイレは硬貨を入れないと開かない仕組になっているのだ。早速硬貨を入れてみる。勿論みごとにドアは開いたが3秒程で自動的にドアは閉まってしまった。

                     

                    そこで誰かが体験使用してみようという事になったが、もしドアが開かなくなったらと、みなビビッている。すでにリスボアで雪隠詰めになった経験のある不肖・私めが体験使用することとあいなった。中に入るとユニットバスのトイレ版といったところか、真っ白でとても清潔、日本の公衆便所特有のアンモニアの臭いもない。

                     

                    仕様説明をよく読んでみると、使用後ドアが閉まった時点から15秒で室内全部から水が流れて洗浄すると書いてある。どうりでピカピカなわけだ。でも、立ち上がって15秒経つとトイレの自動ドアも開くしくみ、用足し途中で立ち上がる人は居ないと思うが何とも不安なトイレだ。日本も清潔で臭いのない公衆便所という点では機能もマナーも見習うべきだ。

                     

                    ところで、カルダス・ダ・ライーニャは、日本語に訳すと「女王様の温泉」となる。この町はヨーロッパでも一番古いオスピタル・テルマル(温泉病院)があることで知られている。日本では余り知られていないが、ポルトガルには日本人が大好きな温泉が沢山ある。

                     

                    病院は町の中心街にある大きな公園内にあり、町を一望できる高台にあった。玄関を入ると突然大広間になっていてプーンとイオウの臭いが鼻をつく。ローブを着た男女、子供、老人で大賑わい、特に年配の女性が多い。温泉病院では、気管支疾患治療の部屋、女王様の部屋、レセプションなどを撮影、その後ドクターにもインタビュー。

                     

                    1485年レオノール女王の命により作られ、病院と温泉が合体した画期的な施設と、より目のドクターは誇らしげだ。ここの鉱泉はリュウマチ、呼吸器疾患に特に効用があるとのことだ。そして、日本の鉱泉専門医も研究のために、しばしば訪れているそうだ。

                     

                    20分程のインタビューをしたが専門的な話が多く、私と奥村さん、勿論春子も目を白黒、ドクターは私たちが渡した3枚の名刺を横にきれいに並べて、本当にこの人たちは理解しているのだろうかという顔つきで、より目を一生懸命広げて私たちの表情を見回していた。

                     

                    ここは医学的根拠に基づいた真面目な温泉、日本人が歓楽街気分で訪れるとガッカリするだろう、現に温泉好きの奥村さんですら、入ってみたいとは言い出さなかった。

                     

                    夜、約束通りペニッシュのペンションに戻る。せっかく青空市でパンやチーズを経費節約のために買ったのだが、余りの寒さに我慢できず、カフェの暖かそうなスープ、ミルクコーヒー、パステス・デ・カマロン(ポルトガル風揚げ餃子)の誘惑に負けて食べてしまう。

                     

                    約束の時間は9時だったが漁師は現れない。少々過ぎた頃ヴァージニアという漁師の母親がやって来た。彼女の話では、この2〜3日シケが続き荷おろしがないので撮影は中止との知らせ。奥村さんは残念がることしきり、春子は盛り沢山のスケジュールのせいで疲労困憊。再び、私たち3人はオビドスを抜けてカルダス・ダ・ライーニャに引き返す。時刻はすでに夜10時になっていた。 

                    No.10 アルコバッサ初日

                    2016.12.13 Tuesday 17:44
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                      ポルトガルの窓から日本が見える

                       

                      文:吉田千津子 写真:奥村森

                       

                      Monastery of  Alcobaca アルコバッサ修道院

                      Monastery of  Alcobaca アルコバッサ修道院

                       

                       

                      アルコバッサ初日

                       

                      今朝、ポルトガルに来て初めて雨が降った。アルコバッサ到着、この町は今までの町と違い道路が広く、交通量も比較的少なく、空気が澄んでいる感じがした。町の中央には、ゴシック様式のモステイロ・デ・マリア(修道院)がある。これが春子のかねてからのお気に入りの修道院で、日本でも知られる悲恋物語の主役ドン・ペドロとイネス・カストロの墓があることで知られている。

                       

                      教会の中では50代の観光案内人のおじさんが、東洋人来訪が珍しいとみえ、何かと説明をしてくれる。春子は水を得たりと日本で買ったガイドブックで読んだことをオウム返しに質問する。勿論、それを通訳するのだが、すでに判っていることを聞いても仕方がない。春子が一生懸命取材をしようとすればする程、私は厭になってきた。やっとのことで取材を終え、おじさんに礼をいって少々のチップをさしあげて別れた。

                       

                      昼食は、レストラン「セレイロ・ドス・フラデス」で食べることにする。久しぶりの美味しい昼食、私は「かじきまぐろの塩焼き」、春子は「いか」、奥村さんは「ステーキとフライドポテト」、ごはんにサラダである。「塩抜きで」と頼んだので普段の味が楽しめた。ポルトガル料理は一般的に北に行くほど塩辛く、量が多くなる、それにテーブルにつくと必ず直ぐにチーズやオリーブのオードブルが出る。私たちはチーズを食べることにした。

                       

                      ところが石のように固い、尋常な固さではない。ナイフを使っても切れない、周囲を気にしながら、やむをえずたたき割る。まるで石鹸を食べているみたいだ。奥村さんは自分から食べようと言い出した手前、1人で半分ほど食べたが、ついにリタイア。

                       

                      「なんでこんなチーズを出すのだろう」と話題沸騰。「きっと何度も客に出して乾燥してしまったんだ」、「外人だから文句を言わないとおもっているんだ」、「金もうけ、オーナーが効率主義者なんだ」などいろいろな意見が飛び出したが、結局本当のところは判らずしまいであった。

                       

                      アルコバッサの町は、アルコア川とバッサ川の交わる所にある。中世の十字軍遠征のおり、シトー教団の命によりキリスト教をポルトガルに普及させるために文化と農業を教え広めた歴史がある。この町は、その拠点として栄えメッカとなった土地だ。町外れには、沢山の陶器工場があり歴史を偲ばせる。

                       

                      工場はさんちゃん経営から大規模なものまであるが、どの焼き物もデザインと色は明るく楽しいが、焼きはあまい。でも、せっかく来たのだからとホテルの主人に陶器工場の住所を聞いて突撃取材。訪ねてみると一字違いの社名、それでも陶器工場には変わりないと厚かましくも取材を申し込む。快く承諾を得てなかに入ると、思いがけず私たちが探していた椿の花「ジャポネイラ」をパターン化したデザインの花瓶が見つかり、私たちは大喜び。

                       

                      夜、春子がヴィーニョ・ヴェルデ(ポルトガルのアルコール分の少ない若いワイン)を買ってくる。やはり私の口にはあわない。昨日カルダス・ダ・ライーニャの青空市場で買った大きなパンは、とても美味しく噛めば噛むほど深みがある、チーズも絶品。

                       

                      今日は奮発して4つ星ホテル「サンタ・マリア」1日6000エスクード、これまでの中では一番贅沢なホテル。しかし、部屋に案内されて驚いた、奥村さんの部屋の窓が半分ないのだ。この寒さなのに蝿が元気にブンブン飛ぶおまけつき。早速、ボーイを呼び別の部屋を用意させる。

                       

                      春子の部屋は一番大きく、壁色がパウダーブルーでコーディネイトされ、まるで女王様の部屋、彼女は満足の極み。私の部屋は豪華大理石のバスルーム、だが、お風呂に入ってバスタブにお湯を入れようにも蛇口からは何時までたっても冷たい水しか出てこない。またまた電話で文句を言うが「その内出ますよ」とつれない返事。結局、ぬるま湯が限界、しょうがなしに風呂に入る決心、結果、風邪ぎみとなる。「これでも4つ星ホテルか」と叫びたくなった。 

                      No.11 アルコバッサの犬

                      2016.12.14 Wednesday 07:39
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                        ポルトガルの窓から日本が見える

                         

                        文:吉田千津子 写真:奥村森

                         

                         

                        Dogs 道路を横断する犬たち

                        Dogs 道路を横断する犬たち

                         

                         

                        アルコバッサの犬

                         

                        アルコバッサに滞在して2日目、今日はレストラン「フレイ・ベルナルド」(ベルナル僧)でフランゴ・ナ・プカラという蛸壺の形をした茶色の素焼きの器に入ったトマトとオリーブ味のトリの煮込みを食べることになった。ホテルの女主人から「アルコバッサに来たら、絶対にこれをたべなきゃ」と美味しい郷土料理情報を仕入れていたからである。サンタ・マリア修道院脇の路地を入った所に、そのレストランはあった。見るからに歴史を感じさせる造りのレストラン、天井も高さ5メートルはゆうにあろうか、とにかく立派な建物だ。

                         

                        フランゴ・ナ・プカラは、注文してかなり経ってからウェイターがうやうやしくテーブルに運んできた。大きな皿に大きなぶつ切りのトリが3個ボンと乗せられ、それにご飯と野菜、フライドポテトが皿から溢れんばかり、味はマイルドでさっぱりして美味しい。この町の料理は全般的に上品でポルトガルの京都味といったところか。

                         

                        私たちが日本のレストラン雑誌から依頼された原稿締め切り日が迫っているというのに春子は焦る気配もない。食事が終わって一段落したので「原稿どうなっている」と、しびれをきらした奥村さんが尋ねる。「今晩までに仕上げるように」、普段もの静かな奥村さんにしては、きつい口調で春子に指示。それもそのはず、彼が出国する前に取ってきた仕事なので責任を感じているのだ。

                         

                        ところが何度書き直させてもダメ、コピーライターだというのに国語の基本もまるでなっていない、とうとう奥村さんが代筆することとなる。春子は、ポルトガル取材旅行計画に積極的な参加意思を示し、これまで彼女が書いた制作物などの実績を確認した上で同行を認めた経緯がある。奥村さんは、カメラマンとライターを兼ねてすることを決意、春子は不満顔で「日本にいればワープロも資料もあるから書けるのに」と愚痴をこぼす始末。

                         

                        日中、町をウロウロ探索したが、面白い被写体に出会うことはなかった。夕食を終えてサンタ・マリア修道院前のロータリーにさしかかった時、ゾロゾロと何やら列をなして歩くものがいる。よーく目をこらすと大、中、小、茶、黒、白、ぶち、101匹ワンチャン大行進よろしく7匹の犬が一列になって修道院前の道路をまさに横断しようとしている。

                         

                        ビュンビュン車が走るロータリーなので、この犬たちがひかれはしかいかとヒヤヒヤしながら見ていると、中央の芝生の上で一旦ピタッと全員が止まりトラックや車をやりすごす。そして、おもむろに車の来ない時をみはからって横断歩道を行儀よく渡るのだ。そういえば、ポルトガル人の乱暴な運転マナーにもかかわらず、これまで一度も車にひかれて死んでいる犬を見たことがなかった。

                         

                        犬といえばペニッシュの港にいた黒い異常に痩せこけたラブラドールのような品の良い顔つきの子犬を思い出す。私がその犬に視線を向けると、前足を車にひかれたのだろうか、ブラブラとさせながらつぶらな瞳でこちらを見つめ「何かもらえるのではないか」と私に懇願するように近寄ってくるのだ。

                         

                        あいにく食べ物の持ち合わせもない上、何か買い与えようにも店はシーズンオフで何処も閉まっている。じっと見ているのが辛くなり、奥村さんに目を向けると高い堤防の上で撮影に余念がない。私も春子と堤防に上がってみる。犬はここまでは上がれないと諦めたらしく、ヨロヨロと通りの方へ帰って行った。

                         

                        私は痛みと悲しみを感じ「その後、どうしているのだろうか」と気になっていたが、帰りぎわに人の去った屋台の隙間に、その犬はチョコンと座っていた。きっと彼の住みかに違いない。雨露ぐらいはしのげるだろうが、これから大西洋の冷たい風が吹き込んでくる。冬ともなれば一層寒さは厳しい。私は。後ろ髪を引かれる思いで、その場を去った。ポルトガルの捨て犬はボロッチーが賢さと哀愁を感じる。それに比べ、人間は身なりは立派だが中身は怪しい。困ったものだ。 

                        No.12 ポルトガル生活事情

                        2016.12.14 Wednesday 08:08
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                          ポルトガルの窓から日本が見える

                           

                          文:吉田千津子 写真:奥村森

                           

                           

                          Meadow in Serradealcobaca  セラ・アルコバッサの牧場

                          Meadow in Serradealcobaca  セラ・アルコバッサの牧場

                           

                           

                          ポルトガル生活事情

                           

                          言い忘れていたが、カルダス・ダ・ライーニャからアルコバッサへ行く途中にう村を通った。セラとはポルトガル語で丘と言う意味だ、その言葉どおりセラ・アルコバッサは丘の中腹にあった。家々がポコッポコッと点在する過疎の村、グニャグニャ道で急停車。そこは一軒の農家前、1台の旧式トラクターを素朴で澄んだ目をした20歳位の青年が整備、その脇でもう1人、前歯が2本しかないおじいさんが青年と話し込んでいた。

                           

                          おじいさんは74歳で「わしの母親は100歳と5ヶ月まで生きたんじゃ、すごいじゃろう」と得意満面、そして今は年金暮しで毎月、2万エスクード(2万円足らず)貰っていると話してくれた。おじいさんのお喋りは際限なく続く、余り相手ばかりもしていられない。この家の主人に挨拶すると「フィゲレイドです」と名乗った。

                           

                          フィゲレイド家は、夫妻と2人の息子、そして、おばあちゃんの5人家族である。おばあちゃんは、黒装束で身をかため椅子に座り、皆の動きを観察している。おばあちゃんはポルトガル女の典型、丸々として元気そのもの。「ポルトガルの田舎でも都会に行きたがる若者が増えて過疎化が進み、日本と同じ悩みを抱えている」と彼女は語る。幸運なことに、2人の息子は田舎に残り両親と一緒に農業をしたいと望んでいるようだ。

                           

                          裏庭は足の踏み場もないほど牛や馬の糞でいっぱい、スゴイ臭い、おまけに蝿はブンブンと飛び回る始末。母屋前の庭には、ニワトリと2匹の黒猫が仲よく一緒に寝そべっている。猫はネズミを取るからと重宝がられ、藪の中や庭など、そこいらじゅうに徘徊している。

                           

                          ポルトガルの犬にしては珍しく、綱に繋がれた2匹の犬が見知らぬ東洋人に向かって吠えまくる。庭に踏み入れると靴が糞まみれになるほどのぬかるみ、それでも好奇心から奥の牛舎を覗くと真っ暗な小屋に黄色い牛が一頭、餌を食べている。2本歯のおじいさんは、この牛を買おうと見に来たのだ。

                           

                          彼は「この牛は年をとっておるのでダメじゃ」と小声で私に耳打ちをした。そして間もなく主人に別れを告げて去っていった。私たちも失礼することにした。私が「田舎暮らしは泥まみれ、しかも臭くて大変だわ」と呟くと、「これが本当の人間の生活さ」と奥村さんは言い放った。

                          No.13 どちらが本当のポルトガル

                          2016.12.14 Wednesday 11:01
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                            ポルトガルの窓から日本が見える

                             

                            文:吉田千津子 写真:奥村森

                             

                             

                            Sun-dried fish in Nazare ナザレの魚天日干

                            Sun-dried fish in Nazare ナザレの魚天日干

                             

                             

                            どちらが本当のポルトガル

                             

                            今朝、アルコバッサを出発する前に春子に代わって奥村さんが書いた原稿をホテルからファックスで日本に送る。8枚送るのに30分以上もかかった。もっと驚いたことに代金がなんと17600エスクード、8で割ってみると1枚が2200エスクードとなる。この4つ星ホテルの宿泊費が1泊、1人、6000エスクードだから、ほとんど3日間のホテル代に匹敵する。「えー、ウソ、ホント」と春子は叫んだ。

                             

                            リスボアのペンションでは、ファックス代は500エスクードだったのに、ボラレたのかもしれない。私は文句も言わずに払ってしまった、一生の不覚、後悔しきり。「明日、観光局の人に言いつけてやるぞ」いくらなんでも酷すぎる。ホテルの女主人は「これでも郵便局より安いのよ」と嘘をつく、バカヤロー。

                             

                            今日の取材は、観光地ナザレ、バターリャ、それにカトリックのメッカ、ファティマである。ナザレは、アルコバッサから12キロ離れた町、夏になると賑わう観光客の姿は今はなく、みごとな白砂の浜辺に荒波が打ち寄せ、カモメの大群が砂浜をギャーギャーと鳴きながら占領している。

                             

                            ナザレは観光地にもかかわらず純朴な人が多く、とても親切で感じが良い。海岸では地元のおばちゃん達が2、3人忙しく働いていた。50代とおぼしき日焼けしたおばちゃんは「わたしゃ、もの心ついた時から、ここで働いているよ」といいながら大きな洗面器に入った塩水の中からザッーと、あじの開きをすくい上げる。それを砂浜に陽が当たるよう、斜めに立てかけた一畳ほどの大きな網に規則正しく並べてゆく。もう200枚以上はあるだろうか。あじの干物は2日間海岸で天日干しされて出来上がる。

                             

                            この時期、彼女たちは朝4時から夜9時頃まで働くのだという。元気のよさには感服する。だが、ここでも若者はカッコよい仕事につく傾向があり、漁業の後継者問題は深刻だとおばちゃんはボヤいていた。ポルトガルで有名な鰯(いわし)は、夏ではなく1月に干すのだそうだ。

                             

                            ナザレからバターリャ、ファティマに向かう。途中ガソリンを入れる。無鉛ガソリンは1リットル145エスクード(116円)なり。バターリャの町は小さいが、その規模に不釣合いな大聖堂がある。この大聖堂にはジョアン1世が祭ってあり、聖堂内はゴシック様式とエマヌエル様式が調和して独自の美をかもしだす。

                             

                            ファティマは世界中のカトリック信者巡礼のメッカで、1917年5月13日に3人の羊飼いの子供が「ロザリオの聖母」をコーヴァ・デ・イリアで見たことがきっかけとなり、毎月13日には敬虔な信者が集まる。とりわけ、5月13日と10月13日にはポルトガルをはじめ世界各国からのカトリック信者が来訪、広場はうめ尽くされる。

                             

                            私たちが訪れた日は30日、人はまばらだが聖堂の側ではローソクを灯して祈る信者、広場から聖堂に続く長い歩道を膝まづいて祈りながら聖堂へ歩む信者の姿がポルトガル人の信仰心の深さを象徴する光景だった。私たち日本人は、冠婚葬祭などの宗教儀式以外は神仏と関わることも少ないが、ファティマの日常的な信心の深さを見るにつけ、日本人のご都合主義な宗教観が浮き彫りとなって見えてくる。イミテーション社会を反省すべきだとつくづく思う。

                             

                            陽も暮れはじめ、そろそろ宿を探さなければならない。つぎの目的地、コインブラに向かう。ファティマからコインブラまでは93キロの道のりだが高速道路を利用したので、あっという間に到着、高速料金は700エスクード(560円)。

                             

                            大学都市・コインブラはポルトガル第3の都市だけあって、交通量も多く人口密集地なのでホテル探しのための駐車もままならない。人々もセカセカとして落ち着きがない。市内での宿泊を諦め、郊外の宿を探すことにする。だが、何処も満員、おまけに料金がベラボウに高い。

                             

                            もと来た道を引き返すと、コンデシャという町に出る。この町は、コインブラとローマ遺跡で有名なコニンブリガの中程にある。夜なのに街灯もなく真っ暗で寂しい。これ以上探しても宿が見つからない。仕方なしに目の前のボロペンションと交渉開始、背の高いおじさんが出てきた。私たち以外に客の気配はない。おじさんは「部屋はこちらです」と案内してくれる。

                             

                            ポルトガルで宿泊する際には、必ず部屋を事前に見てから宿泊料の交渉をする。部屋はガタガタのベッドにタンスだけの粗末なもの、予算節約のため、この程度の宿でガマンすることにする。ところが交渉にはいると、このおじさんがなかなかの曲者「お1人様1晩、1万エスクードです」という、そんな馬鹿な、春子でさえも怒っている。

                             

                            「4つ星ホテルでも6千エスクードで泊まれるのよ、馬鹿も休み休み言いなさい」とさっさと帰ろうとすると、このおやじ「それじゃ、3人で1万2千エスクードにします」と慌てていう。もう遅い、私たちは充分に気分を害している。

                             

                            そこで「私と春子で9千にしたら、泊まってあげる」とブッキラボウに言う。彼は折れて交渉成立。1人3千エスクードでも高いぐらいだが、夜も更けているので仕方がない。部屋の壁には十字架が、机の上にはマリヤ様が描かれた聖書が置いてある。「カトリック信者の恥さらしめ」私は宿のおやじを思い出して叫んだ。

                             

                            ポルトガルに来てからポルトガル人は素朴で親切で働き者というイメージがあったので、このおやじに会ったショックは大きい。「どんなところにも、厭な奴はいるものだ」そう自分に言い聞かせるしかない。それでも収まりがつかない私は「顔は日本人だが日系ブラジル人だ」と大嘘をついた。

                             

                            失礼なことをされて泣き寝入りする馬鹿な東洋人には絶対になりたくないと思ったからだ。今日一日で、神聖なポルトガルと下劣なポルトガルを見せつけられた思いだ。

                            No.14 コインブラの一日

                            2016.12.14 Wednesday 16:05
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                              ポルトガルの窓から日本が見える

                               

                              文:吉田千津子 写真:奥村森

                               

                               

                              Coimbra Library コインブラ図書館

                              Coimbra Library コインブラ図書館

                               

                               

                              コインブラの一日

                               

                              昨日降った雨もやみ、今日はコインブラの取材。四つ星ホテル・チボリ・コインブラにチェックイン、新築の明るいホテルだったのでひと安心。観光局のクリスチーナが迎えに来てくれる。彼女はコインブラ大学卒のエリート、ちょっと丸くて肌は浅黒い。リスボア観光局のジョアナに比べると愛想はないが笑うととても可愛い。

                               

                              この町はコインブラ大学を中心に発展した都市、他のポルトガルの町が若者の流出で高齢化が進むなか、珍しく若い学生で溢れている。コインブラ大学には古い歴史がある。とりわけ図書館は18世紀バロック後期の造りで、天井は天使のネオ・クラシック調の絵で飾られ、家具はブラジル独特の木・シンテッコで作られ荘厳な雰囲気、建物ひとつ見ても博物館そのものだ。

                                   

                              本棚は、ポルトガルの植民地だったマカオを彷彿とさせる中国風の細かい金泥細工が施され、館内は西洋と東洋がうまく融合して独特な文化を生み出している。その棚は、床から天井まで整然と並べられた貴重な歴史的書物で埋めつくされている。ここに保存されている本は50万冊もあり、全てマイクロフィルムに納められ、当館地下の閲覧室で見ることが出来る。

                               

                              この資料の中には「プルグリナソン・デ・フェルノン・メンデス・ピント」という日本に関する古書も含まれているとのこと、許可が下りれば撮影可能かも知れないと奥村さんは興奮気味。大学のすぐ側には、ムゼウ・ナショナル・デ・マシャード・デ・カストロ(マシャード・デ・カストロ国立博物館)がある。この博物館には、ローマ人が造った地下道があり圧巻そのもの。この地を観光で訪れる人は必見の価値がある。

                               

                              市内にあるセ・ノーヴァ(新カテドラル)とセ・ヴェーリャ(旧カテドラル)を見学した後、コニンブリガへと向かう。コニンブリガは前記の通りローマ遺跡で有名な所だ。ここからローマまでモザイクの道で延々と結ばれていたという。この大規模なローマ遺跡はまだ発掘が一部しかなされていないが、完了すれば画期的な歴史遺産になることだろう。それにしても、この壮大なロマン、ローマは偉大なりだ。私達が訪れた時、4、5人の若者が発掘に精を出していた。彼等は大学で考古学を専攻し「実習で発掘の手伝いをしているんだ」と語った。

                               

                              夜はクリスチーナに世話になったお礼に食事をご馳走することにする。彼女は「美味しいレストランを知っているから、そこで夕食をしましょう」と提案。食いしん坊の私たちは早速でかけることにした。

                               

                              コニンブリガを出ると真っ暗で舗装もしていないガタガタ道、そのうえクリスチーナの運転がF1レーサー・セナよろしく「飛ばすは、飛ばすは」寿命が縮む思いだった。コインブラから19キロ離れたカンタニェーデという小さな町に、そのレストランはあった。こじんまりとした一軒家で、中に入ると家庭的な雰囲気のレストランだ。すでに1組の家族が食事をしている。

                               

                              まずは食前酒、そしてオードブル「なんだこれは」私たち3人はオッタマゲてしまった。オードブルの皿が60センチ以上はゆうにある、丸ごとキャベツがドンと半切りした状態で、直径10センチのチーズの塊が3種類、大きなサラミが1本丸のまま、メロンの大切りにパイオ(ハムとサラミのあいのこ)とフレッシュ・チーズが数えきれないほど沢山ブスッブスッと大胆にナイフで刺して盛ってある。

                               

                              こんなオードブル見たことない、これがオードブルならあとはどうなるのだろう。大食漢の春子と私でさえ恐怖におののいた。小食の奥村さんは目を白黒させて「どうしよう」とキョロキョロしている。実は、私たちがショックだったのは量だけではなかった。

                               

                              昨日から贅沢をしすぎて予算オーバー「今日は粗食で」と決め込んでいたからなおさらである。3人は食べる前から胃が重く、気分が悪くなっていた。オードブル後も、ご馳走が「出るは、出るは」もうこうなると拷問だ。ホテルにたどり着いた時は、皆疲れきって食べ物の話をするのも厭になっていた。

                               

                              No.15 パラス・ホテル・ブサッコ

                              2016.12.14 Wednesday 17:07
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                                ポルトガルの窓から日本が見える

                                 

                                文:吉田千津子 写真:奥村森

                                 

                                 

                                Palace Hotel do Bussaco パラス・ホテル・ブサッコ

                                 

                                 

                                パラス・ホテル・ブサッコ

                                 

                                コルク樫のうっそうと茂った並木道、クネクネと曲がった坂を登りきると来訪者をチェックする監視所がある。そこで、私たちの名前を告げホテルの敷地内に入る。5つ星ホテル「パラス・ホテル・ブサッコ」今日、私たちが泊まる宿だ。

                                 

                                ここは修道院として1600年代に建造されたが、1882年になってホテルとして改築、今日に至っている。入口にはジョアン・ペドロ時代の由緒ある家具、広く赤い絨緞を敷き詰めた側面の壁にはフレスコ画、アズレージョ(ポルトガル特有のタイル壁)には「ブサッコの戦い」「セウタの征服」「ナポレオンのポルトガル侵入」の三部作が白と濃紺で鮮やかに描かれている。

                                  

                                「ナポレオンのポルトガル侵入」は、ナポレオン2世率いるフランス軍がポルトガルに侵入、迎え撃つポルトガル軍は、援軍として駆けつけたウェリングトン将軍率いるイギリス軍と共に戦い抜き、ついにフランス軍を撤退させるという話。

                                 

                                各部屋のインテリアは、ピンクの部屋、ブルーの部屋など色とりどり。私の部屋はベッドが異常に高く、洪水になっても大丈夫なほどだ。ヘッドボードはイタリア製の彫刻が施され、とにかく立派だ。だが、暖房器具は設置されているのだが、故障しているらしくとても寒い。ホテルの人が親切にも電気ストーブを持って来てくれたが、なにしろ天井の高い大きな部屋では、なかなか暖まらない。

                                 

                                一向に効果のないストーブに寒さを凌ぐ覚悟を決めた私は、有効利用としてこれまでため置いた洗濯物を洗って、そのストーブの上に干すことにした。ほどよい温度のためか朝までに完全に乾き満足、満足。

                                 

                                この近くにミネラルウォーター「ルーソ」として全国にしられる良質の水が湧き出ることもあってか、水の味は最高。顔を洗うとツルツルになる素晴らしい天然水である。ブサッコ周辺はバイラーダ地方と呼ばれ、郷土料理は子豚の丸焼きだが、頭もついているので睨まれている気がして余り気分はよくない。それに南部鉄のような鍋で料理されたヤギのワイン煮である。この2つが代表的な郷土料理と言える。

                                 

                                このホテルの自慢はワインセラーである。「パラス・ホテル・ブサッコ」は4つのホテル・チェーンがあり、それぞれで消費されるワインを独自で生産している。一年の生産量は約8万本。ホテル製ワインは決して小売しないので、ワイン飲みたさに宿泊する人もいるほどでヨーロッパでも人気らしい。ここのワインは付加価値があるにもかかわらず値段はほどほど、1100エスクードくらいから飲めるので嬉しい。

                                 

                                この日も、スペインのワイン・クラブメンバー15人がヨーロッパ各地のワインのテイスティングをしながら優雅な旅をしていた。ワインの瓶づめ、ラベルはり、瓶の洗浄まで、すべて手作業。瓶の外側はぬるま湯でよく洗う、内側のくもりは特殊な砂を入れて丁寧に洗い再利用、このリサイクル精神を日本の企業も見習うべきだと思う。ワインが客に供されるときに、初めてラベルをはるという手のこみよう。

                                 

                                マネージャーのセニョール・リベイロは、アラン・ドロンに似たハンサムで感じのよい人だ。彼は「このホテルでは、イギリスのエリザベス女王やチャーチル元首相も滞在されワインを楽しまれたことがあるんですよ」と誇らしげに語る。そういえばロビーから部屋に向かう通路の壁に歴史的人物がこのホテルに宿泊した際、撮った記念写真の数々が飾られていた。

                                No.16 子豚地方と狂犬

                                2016.12.14 Wednesday 21:06
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                                  ポルトガルの窓から日本が見える

                                   

                                  文:吉田千津子 写真:奥村森

                                   

                                   

                                  Small boat アヴェイロ運河のモリセイロ(小舟)

                                  Small boat アヴェイロ運河のモリセイロ(小舟)

                                   

                                   

                                  子豚地方と狂犬

                                   

                                  ブッサッコを出発してアヴェイロへ向かう。メリャードという小さな町にでる。この町はコインブラとポルトの分岐点に当たり、私たちは、これからポルト方面に進み、途中のアヴェイロに立ち寄る予定だ。道路の両側には、屋根に大きな煙突のあるレストランが建ち並び、モクモクと噴き出す煙があたり一面を包む。どのレストランも日曜日とあって長蛇の列、ワイワイと賑わいお祭り騒ぎだ。

                                   

                                  どう見ても、この町の規模には不釣合いな光景だ。丁度、昼時なので、そのお祭り騒ぎに加わることにした。外で待っている間、イライラするポルトガル人は1人もいない。みんな楽しそうに話に夢中になっている。レストランの中は戦場さながら、ウェイター達がコマネズミのようにテーブルとテーブルの間を行ったり来たり。食事を終えた客は、長さ80センチ以上もあろうかと思われる紙箱をかついでいる。「あれは何だろう」私はぼんやり眺めていた。

                                   

                                  混んでいるので、なかなか注文を取りに来てくれない。随分待たされたあげく、やっとのことで魚介類のオジヤ風とイカのグリルを注文、ホッとする。ところがまたしても注文したものがなかなか来ない。他の人の注文は直ぐ来るのに、不思議に思い観察してみると、ほとんどの客は子豚の丸焼きを食べているではないか。

                                   

                                  そうなのだ、ここは子豚地方。こんな所でシーフードを食べる田舎者はいない。私たちは場違いな料理を注文した変な東洋人になってしまった。3人で苦笑。そして、先ほどの紙箱の中味は子豚の丸焼きと判明、テイクアウト用のものだった。それにしても皆うやうやしく持つ姿には、まいった、まいった。

                                   

                                  いよいよアヴェイロ。アヴェイロは日本の大分市と姉妹都市縁組をしている。今日の宿はホテル・アルカダ、町の中心にあるロータリーに面している。部屋の窓からロータリーを見下ろすと、中央にオワンをひっくり返したような形の木々が茂り、夕刻には、そこをネグラにする無数の鳥たちで喧しい。

                                   

                                  町の中心部には、運河が流れている。ベニスのゴンドラを模した色彩豊かな「モリセイロス」と呼ばれるボートが2、3隻浮かんでいる。以前に資料で調べておいた、牛が曳く地引網を見ようと海岸まで行ってみる。だが、今は10月、夏も終わり海が荒れるので今年はもう終わってしまったとのこと。残念。

                                   

                                  帰途道を間違え、うっそうと茅の茂った原っぱに出てウロウロしていると、突然、どこからともなく数匹の野犬と化した野良犬がもの凄いけんまくで歯をむき出し、私たちの車に突進して来た。その姿はライオンにも似て、さながらアフリカのサバンナに来ているようだった。私たちは車の窓をしっかりと閉め発進しようとするが、犬たちが前方を塞ぎなかなか発進できない。まかり間違って車のガラスでも割って中に飛び込んでこようものなら、この状況では狂犬病にもなりかねない。私たちに緊張が走る。やっとのことで犬たちを振り切り命からがら、その場を抜け出すことができた。この時ほど車が有難く思えたことはない。 

                                  No.17 ポルトのワイン事情

                                  2016.12.15 Thursday 09:20
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                                    ポルトガルの窓から日本が見える

                                     

                                    文:吉田千津子 写真:奥村森

                                     

                                     

                                    Wine boat of Douro river ドウロ河のワイン運搬舟

                                    Wine boat of Douro river ドウロ河のワイン運搬舟

                                     

                                     

                                    ポルトのワイン事情

                                     

                                    アヴェイロからアウト・エストラーダ(高速道路)で1時間足らず、ポルトガル第2の都市ポルトに着く。ポルトはドウロ河沿いに開けたポルトガルの産業中心地である。ドウロ河には3つの橋が架かっているが、その中のひとつルイス一世橋を渡って対岸の町、ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイヤへ行くことにする。

                                     

                                    ルイス一世橋は2段構造になっている。創設当初は上段が一般者の通行、下段はワイン工場や関連企業の通行路となっていたが、今は一般通行路として上下段とも使用している。この橋の設計者はパリ・エッフェル塔で有名なエッフェル一門のベルギー人とのこと。

                                     

                                    ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアには、数10社のワイン会社のカヴェ(酒蔵)があり、日本でポピュラーなポルト・ワインも貯蔵されている。かつてはワイン生産の本拠地だったこの周辺も、現在ではドウロ河上流の村、ピニョンに移した会社が多い。一般観光客にワインを普及するためのショールームやワインを寝かせる酒蔵として活用しているので、いまだに「ワインの町」という風情を残し営業拠点として現役を保っている。

                                     

                                    私たちが取材をしたワイン会社「オズボーン」は、1772年に設立されたスペイン人のオーナーの会社だ。可愛い栗色の髪の女の子、ロザリアが私たちを案内してくれた。薄暗く音ひとつしないひんやりとしたワイン蔵の中には、大きな樽が無数に横たわっていた。大きいものは直径5メートル以上もあるだろうか。ワインは9種類のブドウを原料として最低3年は寝かせて出荷するのだそうだ。「6種類の赤ワインと3種類の白ワインを製造しています」とロザリアは童顔に笑みを浮かべて丁寧に説明してくれる。

                                     

                                    ポルト・ワインの糖分は発酵を1日で止めたもの、2日で止めたもの、そのまま置いたもので糖分のパーセンテージが変化する。1日で止めたものはスイート、2日はミディアム、そのままのものはドライになるというのだ。醗酵を止めるにはブランディーを加えればよい。ポルト・ワインは、長く置く程まろやかで色が透明なワインになるそうだ。

                                     

                                    この蔵での年代ものは20年前に貯蔵したものだと言う。試飲も沢山させてもらった。いろいろ飲みすぎて最後にはどれがどれか判らなくなり、奥村さんと春子は顔を真っ赤にしながらもロザリアの好意に応えようと必死に飲んでいる。ところでポルトガル特産のポルト・ワインといっても、やたら外資系の会社が目立つ。これは、ちょっと寂しい話だ。

                                    No.18 ポルト百景

                                    2016.12.15 Thursday 10:08
                                    0

                                      ポルトガルの窓から日本が見える

                                       

                                      文:吉田千津子 写真:奥村森

                                       

                                       

                                      Wedding ceremony 結婚式

                                      Wedding ceremony 結婚式

                                       

                                       

                                      ポルト百景

                                      今日10月5日は、ポルトガル共和国制宣言記念日で祭日。朝は晴れていたのに、あっという間に大雨、そうかと思うと雲が切れて明るくなる。これが典型的なポルトガルの天候。雨があがったので、対岸にある「ノッサ・セーラ・ド・ピラール修道院」の展望台にタクシーで乗りつける。380エスクード。

                                       

                                      少々霞んではいたが、ドウロ河にかかるルイス一世橋と対岸のポルト市街が美しい。180度のパノラマ風景で一望することが出来た。ポルトは、ポルトガルという国名の発祥の地でもある。今のポルト市街を「ポルトゥス」、対岸のヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアを「カーレ」と呼び、「ポルトゥカーレ」がポルトガルという名称になったと言い伝えられている。

                                       

                                      「昨日取材したワイン蔵の家並みを高台から撮影したい」という奥村さんの要望もあって、石畳の坂道を3人でドンドン登る。しかし、どこまで登っても全貌を見渡すことは出来ず諦める。帰り道、ワイン蔵とおぼしき広い屋根の上に2〜3匹の猫がノンビリ昼寝をしている。その脇には、ビニールで作った簡易猫小屋がある。

                                       

                                      道路ぞいの柱に紐を渡し、15歳位の女の子が洗濯物を丁寧に干していた。両親は共働きで多忙、彼女が兄弟の面倒や家事を一切きりもりしているのだという。なんだかテレビドラマ「おしん」のシーンの一場面を見ているようだ。

                                       

                                      坂道を下りきると、あのルイス一世橋、歩道は人ひとりがやっと通れる幅しかない。遠くから見るこの橋は、のどかなものだが、見るのと現実は大違い。風はビュンビュンと吹きまくり鉄橋から振り落とされそうになるほどの激しさだ。

                                       

                                      橋をポルト側に渡りきると幅の広い急な階段があり、両側の家の窓から窓へと干し紐が結ばれ、そこに干された洗濯物がパタパタとはためいている。突然、わたしの脳裏に「ポルトガルの洗濯女」の歌が流れた。左右に小さな家々がひしめき、子供たちが私たちにお金をくれとせがむが無視して階段を登り続ける。

                                       

                                      すると、数人の子供達が日本とまったく同じコマを回して遊んでいた。ポルトガルではコマを「ピァン」と言うのだと子供の1人が教えてくれた。コマは貧しい子の遊び道具だったのかなあ、と考えたりもしたが素朴で無心に遊ぶ子供達を見ると心うたれるものがある。

                                       

                                      コマは、ポルトガルから日本に渡って来たものか、日本からポルトガルにもたらされたものかは判らないが、歴史の因果を感じさせられた。階段を登りつめるとカテドラル前の道に出る。カテドラルは高台にそびえ立ち、そこから下町の生活が手に取るように見える。

                                       

                                      3匹の犬がダンゴ状に走るさま、窓から母子がのぞく姿、ごみバケツにリサイクルビンを満杯にしては緑色の宇宙船型をした大きな集積容器に何度も繰り返し運び入れるおばちゃん、ハンティングをかぶった5〜6人のおじさんたちの道のど真ん中での討論、そうかと思えばボーっと椅子に座っているおじいさんもいる。両手に山ほどの荷物を持ったおばさんは、近くの露店で買ったのだろうか、オレンジがカゴから溢れんばかりに顔をのぞかせている。この地域の生活の匂いがして長いこと眺めていても飽きることはない。

                                       

                                      そうこうしていると突然、大粒の雨がまたしても降ってきた。ポルトガルの天候はラテン気質そのものだ。ザーと降ってパット止む、キツネの嫁入りを一日に何回も繰り返している。仕方なく教会の中へ雨宿りする。中では結婚式の真最中、単調なカトリックの賛美歌が流れる。雨のために結婚式に無縁の人達がゾロゾロと参列、広いカテドラルの低い石柱に銅像のように座っている。私もそのなかの1人。

                                       

                                      長く座っていると底冷えがしてなかなか厳しい。奥村さんは、ポルトガルの結婚式を撮影したいと言い出す。式が終わって新郎新婦が外に出て来るまで待つと言うのだ。結局このセレモニーは、なんと11時から午後の1時まで2時間続いたのである。

                                       

                                      新郎新婦がカテドラルから出る頃には、雨も止み青空が広がっていた。奥村さんは、ずっと粘り撮影開始。新郎26歳、新婦27歳のカップル。2人は、この近郷の出身でポルトで知り合い結婚、敬虔なカトリック信徒ということで40人もの司祭を招き、それぞれが祝辞を述べたので2時間もかかってしまったと言う。きっと、名門家族の出でもあったのだろう。

                                       

                                      外では結婚式の記念写真撮影が始まった。カメラマンは女性、日本ではもうアンティークに属すると思われる上からのぞく二眼レフカメラでのんびりと撮影している。一方、奥村さんはニコン片手にチョコマカと動き回り、カメラウーマンよりも前にシャシャリ出てパチパチと写真を撮りまくる。カメラウーマンの影がうすくなり、どちらが撮影しているのか判らない。

                                       

                                      奥村さんが前に立つと、200人もの人が一斉にニッコリと笑うのがおもしろい。カメラウーマンもぜんぜん気にする風もなく、奥村さんが撮影するあいだ待っていてくれる。何とおおらかな。「やっぱりポルトガル人は気が長く人がいい」。日本では考えられないことだ。

                                       

                                      日本なら、縁もゆかりもない何処の馬の骨だかわからない奴が、突然撮影に乱入し邪魔をしたら絶対に嫌な顔をされること間違いなし。おまけに奥村さんは調子にのって、新婦と腕を組んで記念写真のモデルにまでなる始末、ここまでくれば見上げた度胸だ。この幸運で、昨日から雨で写真を撮れなくてクサッテいた奥村さんは急に元気になり、満足な笑みを浮かべた。

                                      No.19 ミーニョ地方 腐っても鯛

                                      2016.12.15 Thursday 11:45
                                      0

                                        ポルトガルの窓から日本が見える

                                         

                                        文:吉田千津子 写真:奥村森

                                         

                                         

                                        Scenery from pousada ポウザーダから望む風景

                                        Scenery from pousada ポウザーダから望む風景

                                         

                                         

                                        ミーニョ地方 腐っても鯛

                                         

                                        ポルトから北上してヴィアナ・デ・カステロへ向かう。道路標識は、なぜかヴァレンサと書いてあり、もう少しで間違った道に入るところだった。あとで知ったのだが、今はヴィアナ・デ・カステロをヴァレンサと呼ぶそうだ。

                                         

                                        12時40分、ヴィアナ・デ・カステロ到着。観光局へ行くように言われていたので、早速訪ねたが事務所は閉まっている。12時30分から14時30分までは、昼食時間で昼休みとドアに書いてある。ポルトガルの昼休みは、日本と違ってゆっくり2時間とるのが普通だ。

                                         

                                        私たちも昼食をとることにした。性懲りもなく私たちは、またも3人前を注文してしまい量が多すぎて3人とも降参。腹ごなしにと市内観光をする。レストランの直ぐ隣にみやげもの屋があり、その店先では2人の若い女の子がポルトガル民族衣装には欠かせない赤や緑の原色のスカーフに縁飾りを付けている。

                                         

                                        16歳と19歳の針子に尋ねると、通常、この地方では14歳から15歳ぐらいから恋愛をして17歳から20歳の間に結婚するのだと言う。昔の日本を思い出す。彼女たちの給料は1ヶ月3万エスクードと安給料だが生活費も安いので大丈夫なのだろう。

                                         

                                        昼休みも終わり観光局を訪ねる。観光局といっても僅か3人の小所帯。その中の事務員で愛想のよいアナが、私たちが泊まるホテル・デ・サンタ・ルジアへ案内してくれることになった。観光局からホテルまでの道のりは、さほどの距離はないが丘に登る道がくねっているので、さっき食べた昼食のせいで吐き気をもよおす始末。奥村さんはコインブラでの大晩餐会から食欲不振、春子もだいぶ弱っていて「水がキシキシする」とコピーライターらしからぬ意味不明な表現をする。

                                         

                                        ホテル・デ・サンタ・ルジアは、ポウザーダで小高い山の上にある。静かな緑に囲まれた落ち着いたホテルだ。各部屋のバルコニーからサンタ・ルジア教会が眼下に見え、その向こうにはリマ河が滔々と流れる光景は素晴らしい。小さな町だがとても風光明媚で住み易そうだ。

                                         

                                        この地方はミーニョ地方と呼ばれ、ポルトガルの伝統工芸や民俗衣装でもよく知られている。ポルトガルの中でも一番ポルトガルらしい地方かもしれない。ヴィアナ・デ・カステロから車で30分ほど行くとポンテ・デ・リマがある。これまで旅をしたポルトガルの中では一番気に入った。名称通り、リマ河のほとりにあり、16世紀から17世紀に栄華を極めたところで、伯爵や公爵の子孫が今でも沢山住んでいる。

                                         

                                        私たちはアナに紹介されたマリア・ド・セウに会い、ミーニョ地方の伝統工芸品を見せてもらった。ファドで使われるギターラ・ポルトゲーザと呼ばれる丸いギター、多彩な刺繍が施された民族衣装など素晴らしいものばかりだ。

                                         

                                        マリア・ド・セウは、キャリアウーマンを絵に描いたような人で、ポルトガルのことなら何でもわかる物知り、しかもエネルギッシュ、ポルトガル人である事と仕事に誇りを持っているのが伝わってくる。彼女の話は薀蓄(うんちく)もあり、なかなか興味深い。その話のひとつに黒ずくめの婚礼衣装があった。

                                         

                                        この地方の婚礼衣装は真っ黒でカラス色である。黒いスカート、それに刺繍をほどこした白いパフスリーブのブラウス、布は厚手のフェルトのような生地。スカートはファスナーの変わりに紐で結ばれ、中年太りをしてからもはけるのでとても経済的。それにもう一つ驚かされたのは、婚礼衣装と死装束を兼用するというのだ。女性が亡くなると葬式の衣装として白装束のかわりに、婚礼衣装を着せるとのこと「こんな話し聞いたことない」。

                                         

                                        夕方、マリア・デ・セウは、コンデ・デ・アウロラ(オーロラ伯爵)の邸宅へ私たちを連れて行ってくれた。古びた邸宅で薄暗いこともあって、吸血鬼でも出没しそうな不気味な雰囲気。これこそが、本当のマンションと呼べるものである。いたるところ土壁は剥げ落ちてはいるが、腐っても鯛である。邸宅の入口にはブドウのつるが青々と茂り、なかなかの風情。

                                         

                                        中に入るとまるで博物館のようだ。星の位置を調べる機械、イェズス会の人が資金集めのために作った水時計、ヤジロベイのような形で両端に金魚すくいの網のようなものが付いて、ゆっくり回転するハエ追い機など、すべてが17世紀から18世紀に作られ、今も使用することが出来る貴重な品々である。

                                         

                                        台所も昔のままで、まきを使用するレンジ、手動式アイスクリーム作り器、炭を入れて使うアイロン、肉ひき機など、これもまた17世紀の記念物。「インドの部屋」と呼ばれるところには、マデイラ・デ・フェロ(鉄の木)で作られたレース状に彫られた椅子やテーブルのセットが置かれている。

                                         

                                        これらの家具調度品は、1840年にアウロラ伯爵の曽祖父がこの家を建てた時にインドのゴアで作らせ、わざわざ此処ポンテ・デ・リマまで運ばせたのだそうだ。伯爵の曽祖父はゴアの副知事だった。栄華を極めたポルトガルが偲ばれる。


                                        このアウロラ伯爵は4代目で相続税は何処でも頭痛の種らしく、その対策として、最近では貴族の末裔は使用していない部屋をツーリストに貸すペンションのようなシステム「アビタソン・デ・ツリズモ」を経営している人が多く見られる。過去の栄光もプライドも、なりふりかまわず投げ捨てないと生き抜けない時代の波がここにも押し寄せて来ているようだ。

                                        No.20 ポルトガルの故郷・ミーニョ料理とワイン、そして親日家

                                        2016.12.15 Thursday 12:19
                                        0

                                          ポルトガルの窓から日本が見える

                                           

                                          文:吉田千津子 写真:奥村森

                                           

                                           

                                          Grape harvest ブドウの収穫

                                          Grape harvest ブドウの収穫

                                           

                                           

                                          ポルトガルの故郷・ミーニョ料理とワイン、そして親日家

                                           

                                          ミーニョ地方には、興味深く面白い取材対象が沢山ある。雄鶏人形で有名なバルセロスとブラガへ向かうつもりでいたが、予定を変更して1日延ばすことにする。午前中は郷土料理の取材だ。昨日泊まったホテル・サンタ・ルジアのマネージャーと交渉、ホテル内レストランの撮影許可をとる。

                                           

                                          今日の料理はアロス・デ・サラセーリョ、豚の血で炊いた肉入りごばんとロジョン(豚と豚レバーをソテーしたものを、もう一度オーブンで焦げ目を付けたもの)だ。この地方の郷土料理はレバーやモツをよく使う。大皿には豚の肉とレバー、黒ずんだ豚の血入りごはんの山盛り。豚のオンパレードだ。

                                           

                                          好き嫌いの多い奥村さんと春子、その中でも大の苦手がレバーである。2人は撮影中から「この料理、あとで私たちが食べなくてもいいよね」と春子。「高そうな料理だから、きっとお客さんに出すんだよ。でも、なんでよりによってレバー料理なのだろう、まいったなあ」と奥村さんもボソボソ応える。

                                           

                                          こんな会話を交しながら30分程で撮影は終了した。そこへホテルマネージャーがやって来て「せっかく作ったので、どうぞ召し上がって下さい」という。奥村さんと春子は何ともいえない表情で顔を見合わせ、心なしか頬も引きつって見える。奥村さんは「失礼なことになるから断ってくれないか」と日本的感覚で私にマネージャーに伝えろという。「単に、苦手のレバーを食べたくないだけではないか」こんな言い訳を通訳するわけにはいかない、私は彼の申し出を却下した。

                                           

                                          覚悟を決めた2人は、折角のご馳走だからと豚肉を食べ始めた。「あっ、レバー」口中に強烈な匂いがひろがる。奥村さんも春子も言葉もなく、ひたすらグラスの水を飲み続ける。結局、私は3人分を1人で食べるはめになった。ワインで流し込みながら頑張ってはみたが、なにせポルトガル料理の3人前、尋常な量ではない。半分食べたところでギブアップ。マネージャーに無礼を詫びて逃げるようにその場を立ち去った。奥村さんと春子は外に出ると、まるで監獄から出所したかのように晴ればれとした表情に変わった。よっぽど辛かったのだろう、ちょっと可哀想な気もする。だが、その様子は滑稽でもあった。

                                           

                                          ヴィアナ・デ・カステロを後にして、ポンテ・ド・リマへ向かう。到着早々、ポルトガル伝統レースの店やフィルグラーナと呼ばれる金細工の店を撮影する。その後、アブレウ・デ・リマ伯爵の邸宅へ。彼の祖先は、フランシスコ・パシェッコといって日本との国交復活を求めて来日したポルトガル最後の使節代表であった。

                                           

                                          パシェッコの使節61人は、鎖国令に反した罪人として1640年長崎県西坂で火あぶりの刑で無念の死を遂げたのであった。にもかかわらず、パシェッコの子孫、ジョアン・ゴメス・デ・アブレウ・デ・リマ伯爵と、その母は「パシェッコは殉死です、今の日本の繁栄は彼の死が無駄でなかったことを証明するもの、日本は私たちの誇りです」と暖かく迎えてくれた。

                                                

                                          ジョアンは小太りでおとなしそうな学者肌、母親は立て板に水を流すごとく話まくる対照的な親子だ。ジョアンはパシェッコの研究家でもあり、すでに3冊のパシェッコに関する本を出版している。この本には、17世紀から18世紀にかけての教会の歴史、戦争、革命、生活、そして死にいたるまでのドキュメントなどが記載されている。本職のエンジニアの仕事をするかたわら、リスボアの国立図書館やアジューダ図書館に通っては、古い資料の翻訳にあたっているそうだ。

                                           

                                          彼は、1757年にジョアン・クラセットが日本史について書いた2冊のオリジナル本を見せてくれた。貴重な資料を手にとって容易に触れることが出来るのもポルトガルならではのことだ。日本だったら権威ある学者でないと、ページをめくることすら許されないであろう。「歴史はみんなのもの」そんな深いポルトガルの文化意識が羨ましく思えた。

                                           

                                          かつて隆盛を極めた貴族の末裔も、今では高い税金に苦慮。その対策としてアビタソン・デ・ツリズモ(民宿経営)をしている人が多い。アブレウ・デ・リマ邸も例外ではない。先祖の文化遺産を維持するのも容易なことではなさそうだ。

                                           

                                          さて話をもとに戻すが、パシェッコは死後、ビアットという高い位を与えられ、ポンテ・デ・リマの教会に祭られるようになった。パシェッコの名は、あまり日本では知られていないが、ここでは英雄的存在なのだ。子孫が、これほどパシェッコや日本を誇りに思って親日的なのだから、日本もポルトガルとの友好を深めるために、もっときめの細かい文化交流を考えるべきである。

                                           

                                          伯爵に別れを告げ、この地区のブドウ収集所・アデガを見学。入口には髭を蓄えた威厳のある男の銅像がデンと飾られている。この人こそが、過日訪問したアウロラ伯爵の先祖でアデガを設立した人でもある。今年のポルトガルのブドウ収穫期は10月1日から10月15日で、この間にすべてのブドウを摘まなくてはならないので、みな大忙しだ。

                                           

                                          今日は10月7日、収穫まっただ中である。今年は雨が多かったので少々遅れているものの、1日に人間が5〜6人は入ることができると思われる大きな樽が600樽ほど持ち込まれるのだから凄い。樽は熟れたマスカット色のブドウや紫色のブドウの甘い香りでいっぱい。トラック、トラクター、馬車などに積まれた樽に溢れんばかりのブドウが次から次へと近隣の村から運ばれてくる。

                                           

                                          日本のゴールデンウィークの高速道路も顔負けである。車両の列は、道のズーッと向こうまで延々と続く。「今、午後4時だが、この行列が解消するには明朝3時までかかるよ」とアデガの工場長はいう。 このアデガでは、まず長い棒を樽につっこんで糖度とアルコール発酵度を測る、その計量の結果に応じてブドウを分類する。

                                           

                                          次に種別したブドウの軸、皮、種を取り除き、それを5段階に分けて圧縮する。圧縮されてできたブドウ液はモストと呼ばれ、1〜2段階で出来たブドウ液をラグリマ、3〜5段階で出来たものをモスト・プレンサと呼ぶのだそうだ。

                                           

                                          そのモストにイーストを加え直径2メートルもあるローラーで液体を漉す。ローラーにはフォシルという白いチョーク状の形をした型が付けられている。この機械を通して精製されたブドウ液は透明になり、樽につめられて涼しい貯蔵庫に寝かされる。これがアデガのプロセスだ。

                                           

                                          この地方の特産ワインは、ヴィーニョ・ヴェルデでアルコール度は12度。このワインは土壌から自然に生まれた乳酸菌を含んでいるので悪酔いをしないそうだ。帰り際に試飲をさせてもらう。たまたま見学に来ていたスウェーデン人夫婦と共に10種類以上のワインを飲んだが、試飲といっても1種類でコップ1杯分も注いでくれるので、すっかり酔っ払ってしまった。ビーニョ・ヴェルデは発泡性のある、さわやかな口あたりの素晴らしい白ワインであった。

                                          No.21 ヴィラポウカ伯爵

                                          2016.12.15 Thursday 19:52
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                                            ポルトガルの窓から日本が見える

                                             

                                            文:吉田千津子 写真:奥村森

                                             

                                             

                                            Picture of Pacheco パシェッコ遺影

                                            Picture of Pacheco パシェッコ遺影

                                             

                                             

                                            ヴィラポウカ伯爵

                                             

                                            大好きなポンテ・デ・リマを離れ、ギマランイスへ向かう。私たちは途中の町、ブラガに立ち寄ることにした。ポンテ・デ・リマで会ったフランシスコ・パシェッコの子孫だというアブレウ・デ・リマ伯爵から「最近、ブラガの親戚のヴィラポウカ伯爵宅で日本で殉死したフランシスコ・パシェッコのデスマスクから写した絵が発見された」との情報を得たからだ。

                                             

                                            城のように大きな邸宅に着いたが、何処が入り口なのだかわからない。大声で叫んでみるが、余りの大きさに声も届かない。仕方なしに階段のある2階の扉まで上って声をかけると、やっとヴィラポウカ伯爵の母親が現れた。今、伯爵は仕事で他国に駐在しているとのことで不在ではあったが、彼女が親切に案内してくれた。

                                             

                                            屋敷のなかは少々カビ臭かったが、ここも博物館のようで面白い。木造りの30センチほどの十字架が書棚の中央に見える。彼女は「これがフランシスコ・パシェッコの遺骨です」と言いながら十字架に仕組まれた小さな4つの窓を指さした。そこにはパシェッコの小さな骨の一部、薬草と木のかけらなどが窓から見えた。彼女は「何でも撮って下さい」と大変協力的で有難いのだが、話し出すと止まらなくなるのにはまいる。

                                             

                                            この屋敷がある敷地には、17世紀に建てられたプライベイト・チャペルがあり、今でも神父さんが毎日曜日に来て礼拝をしているそうだ。時が流れても変わらぬ宗教心には驚かされる。教会内の装飾はターリャ・ドラードと呼ばれる金泥細工が主体で、壁には3人の天使が空中を舞っている絵が描かれている。金箔が少々剥げ落ちてはいるが、なかなかなものである。

                                             

                                            お目当てのデスマスクから写したパシェッコの絵を見せてもらった。西坂の事件を思い出すと、日本人として申し訳ない気もちでいっぱいだった。私たちは、心ゆくまで取材をして、満足感に浸りながらギマライスへと向かう。

                                            No.22 ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタ

                                            2016.12.16 Friday 09:36
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                                              ポルトガルの窓から日本が見える

                                               

                                              文:吉田千津子 写真:奥村森

                                               

                                               

                                              Inside of Pousada ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタ館内

                                              Inside of Pousada ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタ館内

                                               

                                               

                                              ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタ

                                               

                                              今日の宿泊は、ポウザーダ・サンタ・マリーニャ・ダ・コスタだ。判りにくい、くにゃくにゃ道を山のほうへと登る。方向オンチの私がナビゲーターを務めたので道を間違い、またもや奥村さんと私は険悪なムードとなる。それでも、やっとのことでポウザーダに着きホッとする。

                                               

                                              このポウザーダの外観は、これといった特徴はないが室内はとてつもなく広い。天井も高くすべて石造り。長い回廊の左右には、いかにもかつて修道院であったことを偲ばせる木製の重厚な扉が延々と並び、私たちの足音が「コッ、コッ」と回廊に反響して、厳粛にして壮観な気もちにさせてくれる。客室とロビーには16〜17世紀頃の家具が備え付けられ、これもまた優美そのもの。

                                               

                                              ギマランイスは「ジャポネイラ」と呼ばれる日本伝来の椿の花が沢山あることで知られる。某雑誌社から「ジャポネイラ」の取材を依頼されていたので期待して訪れたのだが、時期が早すぎ蕾がやっと付いたところで花を見ることは出来なかった。

                                               

                                              喉が渇いたのでカフェに行ってみると、そこに客の姿はなく、ウェイターが手もち無沙汰でボーッと立っている。頼んだレモンティーを運んできた彫の深い顔立ちでハンサムなウェイターは、ポルトガル語を話す東洋人が珍しいとみえ、暇にまかせて私たちの所から離れようとしない。

                                               

                                              「このポウザーダの宿泊客は、オランダ、イギリス、フランスからの顧客が主体だが、10月、11月になると70パーセントがアメリカ人でポルトガル人はほとんど来ない」と私たちに説明してくれた。 なるほど、ウェイターが懐かしそうにポルトガル語を話す理由がわかった。彼にとって職場では毎日のように外国語を使わねばならず、母国語ポルトガル語に飢えているのだ。

                                               

                                              春子は、私の側でコニャックをすすっている。私が「そのブランディーおいしい」と尋ねると、「ブランディーじゃないです、コニャックです」と真面目な顔で応える。私は「コニャックとブランディーは同じものじゃないの、コニャックはフランス語でブランディーは英語だと思うけど」と言い返すと、春子は驚いた顔で「エッ、本当ですか」と叫ぶ。飲みっぷりは一人前だが、彼女の無知さかかげんには呆れ果てる。しかし、これが当世日本の若いお嬢さんの現実なのかも知れない、我慢、我慢。

                                               

                                              夜はポウザーダのレストランで、ジーンズ姿の普段着でお食事。レストランでは一組のアメリカ人夫婦をのぞき、他の人たちは盛装している。典型的な日本人奥村さんは、しきりに周りを気にしながら「部屋に戻って背広を着てこようかな」ときまり悪そうだ。私もジーンズをはいていたが、他人がどう思おうが別に悪いことをしているわけでもなし、ぜんぜん気にもならない。3人の中では、春子が一番ましな格好をしている。皮肉なことに、外見と中身のマナーがここでは逆転してしまった。

                                               

                                              テーブルについてオーダーした料理を待つ。テーブルには、40センチ程のピカピカに磨かれた鏡のような顔まではっきりと写る銅皿がすでに置かれている。ウェイターがハム、チーズ、オリーブなどの前菜をサービスし始める。さて、この銅皿の上で前菜を食べるか否かで3人ケンケンガクガクの討論が始まった。結局、他の金持ちそうな夫婦の真似をすることになった。ハムは直接盛り皿から取っているのを見て、やっと安心して食べ始める。

                                               

                                              もしも、このピカピカの銅皿にベッタリとハムの形がつきでもしたら教養のない東洋人ナンバーワンとして、ずっと語り継がれることになってはと、なかなかリラックスして食事も出来ない始末。やはり私たちは田舎者なのかも知れない。

                                               

                                              このポウザーダの料理はこれまで食べたポルトガル料理のなかでは一番私たちの口にあった。バカリャウ(たら)も一度揚げてあるので、皮がカリカリとして香ばしく肉厚で塩加減は最高のあんばい。「本物のポルトガル料理を食べるならここだ」と私は確信した。

                                               

                                              奥村さんは、相変わらず食欲が無くスープだけをすする。春子は何故かフォークとナイフを持つとエビや肉を皿から飛ばすクセがある。勿論、この日に食べた鱒も飛ばしたのは言うまでもない。

                                              No.23 フォアグラになった日本人のお話

                                              2016.12.16 Friday 11:13
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                                                ポルトガルの窓から日本が見える

                                                 

                                                文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                 

                                                 

                                                Vineyard & Oive tree Pinhao ブドウ畑&オリーブの木 ピニョン

                                                 

                                                 

                                                フォアグラになった日本人のお話

                                                 

                                                ギマランイスからポルトワインの郷、ピニョンを経てカザル・ロイボの「ツリズモ・デ・アビタソン」に着く。ピニョンから6キロ、その家は山のてっぺんにあった。オーナーは、マヌエル・サンパイオ・ピメンテル。彼は、ポルトで車販売会社の役員をしていたが2年前に大事故にあい、その後は仕事をやめて、ここに移り住んだのだという。

                                                 

                                                「ツリズモ・デ・アビタソン」は2階建、上階はプライベイト住居、1階が共同使用住宅、地下には6室の客室がある。貴族のなれの果てとみえ、1910年にポルトガル王制が廃止された時に広大な土地は全て没収され、残ったのがこの家と少々のブドウ畑だったと言う。

                                                 

                                                1733年にマヌエルの先祖が住み始めてから、彼で5代目だ。家具は18世紀のもの、ポルトガル軍とイギリス軍が協力してナポレオンを撃退した時に兵士が使ったという分厚い皮製のキャンピング・ベンチ、テーブルの上にはピストル2〜3丁が何気なく置いてある。いずれも歴史物で、そこらの博物館より見応えがある。

                                                 

                                                この地方はドウロ地方と呼ばれ、代表的産業はブドウ栽培。畑で働く人たちのための高カロリー「ぶっ込みシチユー・ランショ」が名物だ。マヌエルの使用人のおばちゃんが私たちのために、わざわざ手料理を作ってくれた。

                                                 

                                                材料は牛肉、とり肉、豚の耳と足、チョリソ(ソーセージ)、たまねぎ、人参、じゃがいも、スパゲッティー・パスタ、グラン・デ・ビッコ(ひよこ豆)、オリーブ油、塩、コショー、それにピリピリと呼ばれる唐辛子、にんにく。これらの材料を1時間グツグツと煮込んだら出来上がり。労働者の食事なので、ちょっと塩からかったがとても美味しい。

                                                 

                                                マヌエルは英語が堪能で、英国風辛口ジョークを話すソフィスティケイトなポルトガル貴族といったところだ。博学でおもしろい男だった。彼は、この宿を3人の使用人と一緒にきりもりしている。奥村さんは、ポルトガルにやって来てから言葉が通じず不自由な思いをしていたので、ここぞとばかりに英語で水を得た魚のごとく話しまくる。

                                                 

                                                10月に入ってからは、毎日雨が降ったり止んだりの天候、今日もまたまた同じ。だが、雲に見え隠れする景色も趣があって悪くない。この「ツリズモ・デ・アビタソン」からは、黄色や赤に染まったブドウ畑が眼下に広がり、白い雲とのコントラストが何とも素晴らしい。

                                                 

                                                午前中は雨だったが午後になって陽もさし始めた。ラメゴに午後6時30分に到着、ギマランイスから250キロも運転してきた奥村さんはヘトヘトになっている。今日の宿は「アルベガリア・ド・セラード」。午後7時に観光局の人との約束があるので3人とも慌てて身支度をしてロビーに下りたが、一向に現れる気配がない。

                                                 

                                                40分ほど経過して、私たちが諦めて夕食を食べに行こうとした時、色白の紳士が息を切らせて跳びこんで来た。40分の遅刻だ、ポルトガル人だから仕方ないか「郷に入れば郷に従え」である。彼は、ラメゴ観光局のジョルジ・オゾリオ氏。彼は遅れて来たことを詫び、ロビーにあるバーでジョルジお薦めの1927年物のポルトワインを食前酒としてご馳走してくれた。ほどよい甘さでマイルドな香りが口の中に広がった。

                                                 

                                                ジョルジは35歳、背が高く、ちょっと気弱そうに見えるが誠実な人だった。夕食は、彼のお気に入りのレストランですることになった。レストランに入るとウェイターたちは常連の彼に愛想よく挨拶をする。ジョルジは大きなえび、イカ、いろいろな魚の入ったおじや風ともパエーリャ風とも言える料理、バカリャウ(たら)、ステーキなどをドンドンと注文する。テーブルに運ばれた料理は、日本だったらゆうに10人前以上の量である。彼は、日本の宴会の席のようにワインを、ちょっと飲むとすぐに「どうぞ、どうぞ」と注ぐ。

                                                 

                                                アルコールに弱い奥村さんと春子の顔は、みるみるうちにゆでダコのように真っ赤になってゆく。今日でポルトガル生活3週間目。あっさり派の奥村さんは過労とオリーブ油で体調を崩しているが、せっかくのご好意だからと無理やり料理を口に詰め込む。

                                                 

                                                ジョルジに気づかれないようにと、笑顔を見せながら私に「もう限界、食べ物が口の所まで一杯で気もち悪い」と言いながらも、彼にすまないと必死に食べ続ける。フォアグラの飼育を思い出させる。何処に行ってもポルトガル北部料理の量は半端ではない。

                                                 

                                                翌日10時の約束をして彼と別れる。その後、奥村さんは這いつくばりながら自分の部屋に戻った。言うまでもなく、その夜、彼は食べ過ぎで七転八倒の苦しみを味わったようである。私はといえば、部屋にカメ虫が現れたのでマクラで追い払ったり、部屋には日本製の暖房器具が備え付けられていたので、洗濯びよりとばかり、夜にもかかわらず洗濯をする元気が残っていた。

                                                No.24 ラメゴ名物は発泡ワインと人情

                                                2016.12.16 Friday 11:58
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                                                  ポルトガルの窓から日本が見える

                                                   

                                                  文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  Inside of monastery Saojoaodetarouca サン・ジョン・デ・タロウカ修道院内部

                                                   

                                                   

                                                  ラメゴ名物は発泡ワインと人情

                                                   

                                                  昨日、ジョルジ・オゾリオと10時に約束したが、気がついたら今日は日曜日。ポルトガル人は休日には働かないので、ちょっと心配になる。そんな心配をよそにジョルジは約束どおりやって来た。彼の案内でムゼウ・デ・ラメゴ(ラメゴ美術館)を訪れる。美術館の一室には2メートルもの高さのある一対の薩摩焼きの花瓶があった。

                                                   

                                                  ひとつは15世紀から16世紀の日本の戦場画で、家紋の入った戦闘旗を揚げた武士が入り乱れて戦っている様子を描いたものであった。もうひとつは「キオト」と書かれているが、絵柄や色が中国風に見える。日本を題材にはしているが、私たちからは奇妙に見える逸品だ。その部屋には、椿のアズレージョもあった。余りにも私たちが椿のアズレージョに興奮するのを見たジョルジは、もっと沢山ある場所へ案内すると言い出した。

                                                   

                                                  ジョルジの運転で、ラメゴから車で30分ほどのサン・ジョアン・デ・タロウカに行く。この町は、キリスト教シトー派によってポルトガルで最初に建造された修道院がある。日曜日だというのに雨が降っていることもあってか、人っ子ひとりいない。修道院の中に入ると、美術館で見たのと同じようなアズレージョが4千7百余枚も壁いっぱいに貼りめぐらされているのには驚く。花と動物をデザインしたものが多い。

                                                   

                                                  隣室には、高さ2メートル、重さ1トン、花崗岩を素材にしたイエスを抱くマリア像が飾られている。他のマリア像と違い、いかにもポルトガル風でふくよかだ。チャペルの家具は、その昔ブラジルから運ばれたパオ・ブラジル(ブラジルの木)を材料にして作られている。ポルトガルでは、かつての栄光の産物という意味なのだろうか、パオ・ブラジルをマデイラ・ノブレ(高貴な木)と呼んでいる。

                                                   

                                                  その家具の中には珍品もある。何に使うのか、ついたての形をした10メートルもあるマデイラ・ノブレが一列に立てられている。「これは立って座れる椅子ですよ、ちょうど腰の高さにある半月形のベロをパタンと倒すと補助椅子になるんです。長いミサで僧侶が疲れないための知恵、ミサは厳粛な雰囲気を保ちながらも椅子に座ることも出来るんです」とジョルジは柄になく悪戯っぽく話す。

                                                   

                                                  長いローブを着ると、それこそカモフラージュされて立っているとしか見えないであろう。いかにも、ラテン人らしい発想、名づけて「横着椅子」。ベロをパタンとたたむとエンゼルの顔が見える、ユーモアたっぷり、皆で大笑いする。

                                                   

                                                  もう一つの傑作は、2階に取り付けてあるパイプオルガンだ。オルガンを弾くと、すぐ側にある木製のキリスト像が音楽に合わせて手を広げ、口を動かすカラクリの仕掛けになっている。シトー派はお堅い人達ばかりだと思っていたがユーモアに富み、なかなかのアイディア集団であったとみえる。

                                                   

                                                  修道院案内人の男は、足が不自由で両杖をついている。彼は信じられない早さでまくしたて、いつまでたっても話が止まらない。閉口。帰途、ワイン工場に立ち寄る。日曜日で休みなのではないかと思ったが、あにはからんや工場は開いていた。当然である、今日がブドウ収穫最後の日、ワイン工場の仕事で一番大切な日だったのだ。

                                                   

                                                  工場の側には広大なブドウ畑が拡がり、地下には花崗岩を利用したワイン蔵が造られている。気温は常に12度、湿度は100ペーセント以上に保たれている。ワイン蔵はヒンヤリとして、時おり天井から水滴がポトポトと落ちてくる。赤・白・ロゼのワイン、シャンペンあり。

                                                   

                                                  「各ワインは樫か栗の木の樽で寝かせ、1年の生産高は35万本、常時300万本は有りますよ」と工場長は自慢気に語る。モンターニャ地方のラメゴは小さな町だが、発泡性ワインでは全国的に有名、そして何よりジョルジに象徴される誠実で真面目な気質はこの町の宝である。観光局のジョルジは休日にもかかわらず、私たちのために一生懸命に案内してくれた。「ジョルジありがとう」

                                                   

                                                  だが、2晩連続の彼の接待で、ついに奥村さんはダウン、丈夫なはずの私までワインと食べすぎで体調を崩してしまった。明日は100キロ先のスペイン国境に近い町、シャーベスに撮影のために向かわなければならない。どうしよう。 

                                                  No.25 山の中のブレーメン音楽隊

                                                  2016.12.16 Friday 13:52
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                                                    ポルトガルの窓から日本が見える

                                                     

                                                    文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                     

                                                     

                                                    Wagon & boy 荷馬車と少年

                                                     

                                                     

                                                    山の中のブレーメン音楽隊

                                                     

                                                    午前8時、シャーベスに向けて出発。ヴィラ・レアルまで23キロのクネクネ道を走る。乗っている私たち、運転している奥村さんも気もちが悪くなるほどの急カーブだ。やっとヴィラ・レアルとホットしたのもつかの間、またまた曲がりくねった道が続く。一体どこまでクネクネ道が続くのだろう。

                                                     

                                                    シャーベスまでの道程は100キロに及んだが、結局まっすぐな道はほとんどなかった。すでに体調を崩している3人は、シャーベスに到着した頃には頭がボーッとしてヨレヨレになっていた。早速、観光局に行ってみると、リクエストしてあった取材の話など聞いていないというのだ。

                                                     

                                                    「100キロもの距離を車に酔いながら駆けつけたのに」私たちの連絡不足もあっただろうが、腹立たしくドッと疲れが出てきた。怒りが収まらない私たちはシャーベスにいるだけでも気分が悪くなり、すぐにラメゴに引き返すことにした。

                                                     

                                                    私たちの心は晴れなかったが悪いことばかりではなかった。ラメゴに帰る山道で「ブレーメンの音楽隊」そのままの父子に出くわすことが出来た。彼らはロバに荷車を引かせて、荷台のうえには家財道具一式に加えて一羽の茶色い鶏までも乗せている。

                                                     

                                                    荷車に細い紐でつながれた黒い子犬が雨でびしょ濡れになり、寒さのためブルブルと身体を震わせている。ロバも急な坂道を登るたびに垂れ下がっているたづなが擦れるらしく、わき腹が赤剥けて血がにじみ出ている。茶色の穴だらけのセーターを着た8歳ぐらいの男の子は、傘もささず雨の中をゆっくりゆっくりと3頭の馬を引いて歩く。

                                                     

                                                    後方には父親がもう1頭の馬を引いている。その馬は大切な商品なのだろうか、透明ナイロンシートが背中にかけられている。ビュンビュンと通り抜ける車を避けるように、彼らはモクモクと急な山道を目標の村へ向けて歩き続ける。

                                                     

                                                    写真を撮らせてもらったお礼に、私が持っていた日本製のワッペンを男の子にあげると、恥ずかしそうな笑みを浮かべ父親に嬉しそうに見せる。その様子は貧しいながらも素朴で信頼の糸で結ばれた父と子の姿に見え、日本の消え去った懐かしい風景として深く心に残った。

                                                     

                                                    今日でラメゴともお別れ。お世話になったジョルジ家族を夕食に招待することにした。だが不覚にもジョルジに先手をうたれ、逆に招待されることになってしまった。車に乗せられて着いた先は、なんとジョルジの家だった。彼の家は中古で買ったマンション、3寝室、2バス、台所、居間で構成され、こぎれいで住み易そうな住まいである。

                                                     

                                                    数年前に400万円ぐらいで買ったそうだが、いまでは1千万円以上出さないと買えないだろうと彼は言う。日本なら、この値段でこのサイズの物件はとうてい買えないだろう。子供2人の4人家族で、夫人のマリア・ジョアンは教育熱心なお母さんだ。思いもよらぬポルトガル家庭訪問、マリアの美味しいホームメイドの夕食とワイン、BGMはポルトガル音楽、今日起こった嫌なことも、みんなふっ飛ばしてくれる。「ジョルジいろいろお世話になりました、ありがとう」 

                                                    No.26 ポルトガルの東洋人

                                                    2016.12.16 Friday 14:15
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                                                      ポルトガルの窓から日本が見える

                                                       

                                                      文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                       

                                                       

                                                      Sheep farming 牧羊

                                                       

                                                       

                                                      ポルトガルの東洋人

                                                       

                                                      ラメゴからヴィゼウに向かう。出発前、わざわざジョルジがお別れに来てくれた。本当に人の好い、人情深い人だ。昨夜は3人とも、ジョルジの家からホテルに戻ると気分が悪くなり吐いてしまう。昼に食べたサンドイッチがあたったものと思われる。奥村さんはとりわけ酷く、一睡も出来なかったようだ。

                                                       

                                                      だが気分が悪くてもプロ意識旺盛な奥村さんは、途中、羊の大群を連れて山中を歩くおじさんと山上で出会うと撮影を始める。1時間半ほどでヴィゼウに到着。体調が悪いためか、馬鹿に長く感じる。観光局の紹介で4つ星ホテル「グラン・ヴァスコ」にチェック・イン。ホテルは夏のシーズンも終わり閑散としている。オフシーズンのためか暖房もカットされ、各部屋にポータブル・ヒーターを備えて暖を確保している。

                                                       

                                                      フロントには、東洋人の顔付きをした50歳代の男とでっぷりとした恰幅の良い男がいる。東洋人風の男が私たちの重いスーツケースを3つ、ハーハー言いながら運んでくれた。荷物1個につき200エスクードのチップを差し出す。その男は「あなたは、中国人か」と私に尋ねる。

                                                       

                                                      その質問は、逆に彼にしようと思っていたところだ。その男は「自分はポルトガル人で中国へは行ったこともない」と言う。何代か前の祖先がマカオからポルトガルに移住した中国人の子孫なのだろう。ポルトガル北部、内陸部まで来ると東洋人はおろか、世界中どこに行っても出会う中国人にすら会うことは無かった。

                                                       

                                                      彼は私が中国人だったら、中国事情でも聞こうとでも思ったのだろうか。言うなれば、私は彼にとってパンダ的存在なのである。体調が相変わらず良くならない3人は、今日は休日にすることにした。一番体調の悪い奥村さんは、昼も夜も日本から持ってきた日本茶とミソ汁だけをすすっている。その夜、私たちは、これまでの疲れと緊張から一日中眠りこけた。

                                                      No.27 修道院の生活

                                                      2016.12.17 Saturday 12:47
                                                      0

                                                        ポルトガルの窓から日本が見える

                                                         

                                                        文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                         

                                                         

                                                        Nuns 修道女

                                                         

                                                         

                                                        修道院の生活

                                                         

                                                        一日休息を取ったので大分体調が回復してきた。今日はサンタ・ベアトリス・ダ・シルバ修道院を訪れることになっている。普段、修道尼以外は入館禁止とされているが、はるばる日本から訪ねて来たのだからと、観光局と修道院の特別な計らいで実現したのだった。

                                                         

                                                        ヴィゼウのホテルから車で20分ほどの所に修道院はあった。ここでは12人の修道尼が共同生活をしている。扉を開けると正面に30センチほどの格子のついた小さな窓がある。年輩の修道尼が窓越しに「私は外へは出られないので済みませんが、この鍵でドアを開けて自分で入って来て下さい」と言う。

                                                         

                                                        鍵を開けると、そこは接客室、訪問者が修道尼と対話できる唯一の場所だ。ここから先は、何人も入室が禁じられているのだ。だが、私たちは特別扱い、オフホワイトの床までの長いローブを身に着けた修道尼がチャペルに私たちを招きいれ、歓迎の讃美歌を歌ってくれた。

                                                         

                                                        彼女たちの一日は、5時50分の起床から始まる。朝食後、ミサと仕事、昼食休みが1時間40分、再び仕事、夕食は午後8時半、そして就寝。これが日課だ。仕事は司祭のローブや祭壇のカバーを飾る刺繍作業、その間、手の空いた修道尼が聖書や宗教関係の本を読み、作業中の修道尼に話して聞かせる。

                                                         

                                                        生活は自給自足、広い敷地内の菜園にはキャベツ、かぶ、イチゴ、トマト、豆、人参、たまねぎ、ブドウ、りんご、梨となんでも植えられている。その他、鶏、兎、アヒルなども飼っている。なかでも食用うさぎの小屋には、絞め殺すロープや鋭い包丁などが置かれている。

                                                         

                                                        この優しそうな修道尼たちが食料のためとはいえ、殺生をするのかと思うとイメージが湧かない。むしろ想像できないギャップから、おどろおどろしい感じさえする。牛肉は、週に一度、業者に頼んで持って来てもらうそうだ。飼育している量では賄いきれないのか、殺生を出来る限り避けたいと思ってのことかはわからないが。

                                                         

                                                        この修道院の最長老はイルマ(シスター)・デオリンダ。もうここに入って31年になるそうだ。修道院で修行を望む者は、まず手紙を書いて入院の許可をとる。それが受諾されると修道院に簡単に誰でも入ることが出来る。入院して6年目までは何時でも止めることが出来るが、その期間を過ぎると修道院で務めを続けるか否かの最終決断をしなければならない。一度、継続決断すると一生を修道院で過ごし、病気で病院に通う以外は外出禁止と言う厳しい戒律のもとに暮らすことになる。修道院の片隅には墓地もあった。ここで生涯を終えた修道尼たちが眠っているのだ。

                                                         

                                                        修道尼の日々は神に祈りを捧げること、生活は極めて質素で彼女達の部屋には小さな洗面所とタンス、それに粗末なパイプ製のベッドだけ。洗面所にはコップと使い古した歯ブラシと歯みがき粉。物が溢れる飽食の時代に暮らす私たちにとっては考えられない生活だ。

                                                         

                                                        しかし、彼女たちの表情は生き生きとして輝いている。きっと精神的に充実した暮らしをしているからに違いない。今日の日本は、物質的には豊になったが精神的なものが失われつつある。ここにいると何故かホッとして穏やかな気持ちになれるのだ。経済競争に明け暮れ、自失状態の日本人が裸の王様に見えて来る。

                                                         

                                                        こんなことを考えながら、ヴィゼウから22キロの郊外にある温泉、サン・ペドロ・ド・スルに向かう。ここは、カルダス・ダ・ライーニャの温泉病院に比べるとリゾード化しているように思われる。4時からオープンするこの温泉、まだ30分前だとういのに長蛇の列が出来ている。この地の人々にとって日常不可欠な施設になっているようだ。

                                                         

                                                        この施設には、温泉プールもあるので子供達もいっぱい、レジャー機能も備わっている。その昔ローマ人が使用していた風呂もここには残っていて、周辺の公園にはあちらこちらから鉱泉のイオウの臭いがする。「時間があったら入ってみたいな」と温泉好きの奥村さんは、詰まったスケジュールを恨み残念がる。

                                                        No.28 ダウン地方の田園生活

                                                        2016.12.17 Saturday 13:12
                                                        0

                                                          ポルトガルの窓から日本が見える

                                                           

                                                          文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                           

                                                           

                                                          Serra cheese セラ・チーズ作り

                                                           

                                                           

                                                          ダウン地方の田園生活

                                                           

                                                          念願のチーズ作りを見学しようと、カナス・デ・セニョリンにあるツリズモ・デ・アビタソン「カーザ・アブレウ・マデイラ」に行く。ここはセラ地方と呼ばれ、チーズはセラ・チーズとして有名だ。

                                                           

                                                          まず、羊の乳を35度に温める。それにコアーリョ(自然の凝固剤)と塩を入れる。固まるのを待って穴のあいたメタル容器に移し、水分を1時間かけて取る。漉し取った水分は、もう一度煮詰めてレケイジョン(クリーム・チーズ)にする。チーズは1ヶ月間、蔵で毎日裏返しながら熟成させると出来上がり。「カーザ・アブレウ・マデイラ」では、10月から5月までホームメイド・チーズを作るそうだ。羊特有のきつい臭いもなく、とても美味しかった。

                                                           

                                                          チーズといえばワイン。この地方のワイン「ダウン」も有名である。郷土菓子は「カスターニャ・デ・ヴィゼウ」といって日本のケイランソーメンに似ている。その帰途、ブラガンサ家の末裔の住んでいる邸宅の前を通った。42歳で独身、まだ王制が続いていれば、世が世なら彼はポルトガル王になっていた人である。こんなひなびた小さな町に王様の末裔が住んでいるなんて、ちょっと以外だった。

                                                           

                                                          畑の中に真っ直ぐに延びた一本道を進むと、突然、道路を横切る羊の大群。奥村さんは、早速車を止めて羊のほうへ走って行く。だが、すぐに息をゼイゼイさせながら真っ赤な顔をして慌てて帰ってくる。「牧羊犬に阻まれて撮影できなかった」とのこと。これまでの旅で奥村さんは「番犬は必死に羊を守る、それを脅かすものには容赦なく跳びかかる」という気質を学んでいたからだ。

                                                          No.29 セラ地方の井戸端会議と羊飼い

                                                          2016.12.17 Saturday 19:59
                                                          0

                                                            ポルトガルの窓から日本が見える

                                                             

                                                            文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                             

                                                             

                                                            Shepherds 羊飼い

                                                             

                                                             

                                                            セラ地方の井戸端会議と羊飼い
                                                             

                                                            この2日ほど体調を整えるために粗食で過ごしたので、私たちは再び元気を取り戻した。今日は、これからヴィゼウを出発してグァルダ、コヴィリャンを経由、カステロ・ブランコへと向かう。またしても道に迷ってしまったようだ。こうなると小さな町や村は地図にも載っていないので役に立たない。四苦八苦しながらも、人に道を何度も尋ねながら行くことにする。

                                                             

                                                            セイアと言う分岐点の町で道を聞いた時には、野次馬が沢山集まって「ああでもないこうでもない」とケンケンガクガクの討論になってしまった。井戸端会議のおじさん達は勿論のこと、兵隊さんまでやって来る始末。車を動かすこともできない。何と言うことはない、どちらの方向に行ってもコヴィリヤンに行けることが判った。

                                                             

                                                            私たちは気の向くままに方向を決め進むことにした。セイアからコヴィリャンに向かう山道は穏やかで、自動車もほとんど通らず快適。撮影も快調だ。山のテッペンでは、ドイツ人らしいバックパック姿の2人づれが雨に濡れながら歩いている。バスも通りそうにない道を、これから延々と次の村まで歩くのだろうか。さすがはヨーロッパ人、そのたくましさに私は驚愕した。

                                                             

                                                            山の中腹では、羊の首に付けられた鈴の音が「カランコロン」とノンビリと響き渡る。コヴィリャンは、ポルトガルで一番高い所にある町だ。岩山にビッシリとへばり付くように家が建ち並ぶ。その家と家を無数の坂道が糸のように結んでいる。この町にも特産の美味しいチーズがあると聞いていたので取材をしようと試みたが、あいにくチーズ作りのシーズンはすでに終わってしまったとのこと。諦めてカステロ・ブランコへと車を走らせる。

                                                             

                                                            途中、70歳と45歳の羊飼いに出会う。70歳のおじいちゃん羊飼いは「この仕事を50年やっているよ」と話す。パトロンに雇われて230頭の羊を一日中追って野山を歩き回っているのだそうだ。おじいちゃんに寄り添うように大きな犬と、これから牧羊犬としてデビューするという顔の毛がポアポアした青い目の子犬が愛嬌をふりまく。この可愛い子犬も羊に近づく不審者を撃退するために歯をむき出す逞しい犬に成長するに違いない。

                                                             

                                                            おじいちゃんとおじさんの手は乾燥した足のかかとのようで、とても固そうでヒビ割れている。雨が降っても、雪が降っても、どんなに辛くても毎朝4時から夜9時まで羊の世話やチーズ作りをするのが彼らの仕事だ。ポルトガル人は本当に働き者、顔にも手にも極上の年輪を感じる。

                                                             

                                                            カステロ・ブランコに近づくと平坦な道が続く。観光局でレジテンシャル(ペンション形式の旅籠)を4500エスクードで紹介してもらう。オーナーはインド人である。政情不安のアンゴラやモザンビークからポルトガルに移住して来るポルトガル語圏のインド人が大勢いる。両国とも、かつてポルトガル植民地だったのが起因している。

                                                             

                                                            そして、何故かペンションなどの宿泊施設を家族や親類で経営しているケースが多い。私たちが泊まった宿だけでも、3軒目である。奥村さんの体調は再び崩れ、食欲がない。一方、春子は元気いっぱい。「お腹がすいて、すいて」と奥村さんの気もちを察することもなく、無神経にはしゃぐ。世代の違いと言ってしまえばそれまでだが、この自己中心的神経とまわりの様子を気にも留めない図々しさは、たいしたものだ。

                                                            No.30 由緒ある町・エストレモス

                                                            2016.12.17 Saturday 21:25
                                                            0

                                                              ポルトガルの窓から日本が見える

                                                               

                                                              文:吉田千津子 写真:奥村森

                                                               

                                                               

                                                              Antique bed of Pousada Santa Isabel ポウザーダ・サンタ・イザベルのアンティーク・ベッド

                                                               

                                                               

                                                              由緒ある町・エストレモス

                                                               

                                                              連日の強行スケジュールで、普段でも細身の奥村さんが一層痩せ始めた。ここ2〜3日、スープとサラダしか食べずに400キロ以上ドライブし続けて来たのだから。奥村さんの体調を象徴するかのように、景色も南下するに従って緑の牧草は消え、荒涼とした岩と灰色の平原が地平線の彼方まで続く。

                                                               

                                                              その荒野には、オリーブの木と皮を剥ぎ取られて赤茶けたコルクの木が雑然と植えられている。木々の合間には牛や馬の群れが三々五々たむろし、羊は首に付けた鈴を「カランコロン」と鳴らしている。この春に生まれたばかりの子羊は、母羊に寄り添うようにして歩く。

                                                               

                                                              予定では、あと2日でリスボアだ。到着したら宇宙人の春子は仕事の都合で帰国するのだという。彼女には悪いが、私は付き合うのに疲れはてた。写真を撮りながら、午後2時頃エストレモスに到着。今日の走行距離は200キロ。私たちにとってギマランイスに続いて2度目のポウザーダ泊まり、興味津々。

                                                               

                                                              「ポウザーダ・サンタ・イザベル」は要塞として造られた立派な建物だ。かつて、ここにデニス王とイザベル王妃が住んでいて、慈悲深い王妃は民衆からとても崇拝されていた。アレンテージョ地方は土地も痩せていて、人々の生活は貧しく苦しかった。王妃はデニス王の反対にもかかわらず、民を思い親身になって援助をしたという。

                                                               

                                                              また、ヴァスコ・ダ・ガマは15世紀にインド諸島航海の際、この要塞でマヌエル王より国王の旗印を与えられたとのことだ。この建物は歴史的に由緒があり、1970年にポウザーダとして改装され現在に至っている。

                                                               

                                                              私の部屋は28号室で廊下の奥の角部屋、ポウザーダ前にあるイザベル王妃の像が窓から良く見渡せる。ベッドは17世紀の赤いビロード屋根のついたアンティーク・キャノピーベッド、このタイプの家具はインド・ポルトゲーザと呼ばれている。独特な「ねじりかりんとうの形」のデザインはインドとポルトガル感覚をミックスして出来た賜物だ。このアンティークベッドは高さが腰のあたりまであるので、よじ登らなければならない。

                                                               

                                                              部屋は古い素材を活かすためか、木枠窓は歪んで閉まりも悪い。その夜、運悪く暴風雨に見舞われた。窓の隙間から風がビュンビュンと唸り声をあげる。雨は降るし、近所には食べる所もなさそうなので、仕方なくポウザーダで食事をすることにする。ギマランイスではジーンズ姿で食事をして、恥ずかしい思いをした奥村さんはスーツにネクタイで食堂にやってきた。

                                                               

                                                              ところがギマランイスのポウザーダとは違い雰囲気はとてもカジュアル、せっかく盛装をして来た奥村さんは残念ながら浮いてしまっていた。食事も終わり久しぶりにテレビをつけて、ガチャガチャとチャンネルを回していると日本語放送をしているではないか。しかし、電波が遠いのか暴風雨のせいか、ほとんど映像は映らず音だけが聞こえ、まるでラジオである。

                                                               

                                                              不思議なことに、コマーシャルの時間になると突然映像が鮮明になるのにはまいった。そういえばセトゥーバルの画家・武本比登志さんが「今はポルトガルでも日本のテレビが見えるんですよ」と言っていたのを思い出した。


                                                              Calender
                                                                 1234
                                                              567891011
                                                              12131415161718
                                                              19202122232425
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